身体的虐待も激化した。それは和寛に対しても同様だった。
屋外にある風呂に連れていかれ、“行水”と称して何十回と水の中に顔を沈められた。息ができず「苦しいな、早く楽になりたいな、このまま死ねたらいいのに」と考えたことが、たえの最も古い記憶の一つだ。
季節問わず、裸にされて屋外へ放り出されることもしばしばだった。
「当然、近所中に見られます。行水の時だって私たちの悲鳴が響き渡るわけです。それで通報してくれる人がいて、警察官が駆けつけることもありました。けれど父親が『しつけのためにやった』と言うと、警察官も『ほどほどに』で帰ってしまう。そんなことがしょっちゅうあったんですけど、当時の警察はそれ以上動こうとしませんでした」
近所の人は次第に、通報しても無駄だと学習したようだ。
和寛が小学3年生のある夕方のこと。父親から裸で後ろ手に縛られ、腰にロープを巻いて車の後部につながれ、父親の運転するその車に引きずられたことがあった。まだ明るい時間帯であり、近所の人たちも目にしたが、止めに入る者はいなかった。
「普通に考えたら、殺人行為じゃないですか。だけどそれすら誰も助けてくれなかったんです。『あの子かわいそうだよ、誰か助けてやりなよ』と言い合うだけで終わりました。あの父親は怖い、何をされるかわからないというイメージが周囲にも植え付けられていたのでしょう」
この年、和寛の担任だった男性教師が放課後に訪ねてきて「和寛君とたえさんを養子にしたい」と父親に申し出たことがあった。父親は腰を据えて話すことなく追い返した。たえは成人後、教師の連絡先を探し出してお礼を言ったことがある。地元では唯一、姉弟を助けようとしてくれた大人だったからだ。
同じ頃、東京で女優として成功している叔母も「2人を養子にしたい」とやってきた。虐待の噂を親族から聞きつけ、心痛めたのだろう。しかしこの時も父親は突っぱねた。
姉弟に共通していたのは「大人は助けてくれない」という認識だった。2人とも感情を顔に出すことは滅多になく、言葉にすることもなかった。
ダンボールに隠れて「2人で生活しようね」
姉弟間でのコミュニケーションは、アイコンタクトが基本だった。
数少ない子どもらしい情景として、姉弟でテレビの前に並んで座り『8時だョ! 全員集合』を観たことがたえの記憶に残っている。「面白いね」と笑っていると、父親が不機嫌になり「こんなの見てるんじゃねえ」と言い出した。姉弟はいつものようにアイコンタクトを取って、居間から離れた。