1ページ目から読む
3/4ページ目

 結局、弟子入りは石原の事務所が新人を募集していなかったためかなわなかったものの、新聞で団員を募集していた「劇団フジ」に入り、アルバイトで生計を立てながら俳優修業を積む。入団3年目には劇団公演で主役を張るまでになった。「松平健」の芸名はこのころに出演したドラマのプロデューサーがつけてくれたものだという。

 転機が訪れたのは4年目、20歳のときだった。劇団の作家の紹介で、俳優の勝新太郎と出会ったのだ。勝から会うなり「おまえ、京都に来れるか」と訊かれたので「はい」と即答する。それからというもの3ヵ月ほど、あてがわれたホテルから撮影所に通いながら、勝の演技や、現場での作法などを見て学んだ。

勝新太郎が怒鳴ったわけ

 半年後には劇団を辞めて、勝が監督を務めるドラマ『座頭市物語』(1975年)で本格的に俳優デビューする。その制作発表に際し、勝をマスコミの記者たちが囲んでの食事会に同席すると、突然、勝が「松平!」と怒鳴り出した。当人にはさっぱり理由がわからなかったが、あとから「これでみんなおまえの名前を覚えただろう」と言われ、師の思いやりに気づかされる。

ADVERTISEMENT

 このあと、1976年には昼の帯ドラマ『人間の條件』で初めて主演を務めたが、その後1年ほど、大河ドラマ『花神』(1977年)に出演したのを例外として、ほとんど仕事をしなかった。それも勝が「主役以外やるな。いま、脇役の仕事をすれば元の木阿弥だぞ」との方針により出演依頼を断っていたからだ。この間、松平は給料をもらいながら、歌舞伎や舞台を見るなどして勉強に励んだ。

 同時期には、舞台『天守物語』の主演の坂東玉三郎の相手役を選ぶオーディションで最終選考まで残ったものの、結局、落ちてしまった。しかし、それを伝える新聞記事を見た東映のプロデューサーから、新たに始まるテレビ時代劇の主演のオファーを受ける。主演に決まっていた大物俳優が降板したので、新人で行きたいという。この時代劇こそ『暴れん坊将軍』であった。

「吉宗評判記 暴れん坊将軍 第一部 傑作選 VOL.1」

23歳の若さで主演に抜擢

『暴れん坊将軍』がスタートしたのは1978年1月。撮影開始は前年の11月中旬で、松平はまだ23歳だった。彼が演じる将軍・徳川吉宗は、毎回、江戸市中に出かけては、旗本の三男坊「徳田新之助」を名乗って人々と交流しながら、江戸にはびこる悪を成敗するという役どころだ。役のうえでは将軍とはいえ、脇を有島一郎や北島三郎といったベテランたちが固めており、最初のころは撮影現場で出番を待つあいだもとても座っていられなかったという。