「週刊文春CINEMA」の≪BEST CINEMA 2023≫第2位は、天才指揮者リディア・ターを描いた『TAR /ター』。 “渋谷系の女王”の異名をもち、長年エンタテイメントの最前線に立つ野宮真貴さんが作品の魔力を解説。
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役に「なりきる」を超えて「取り憑かれている」
『オーシャンズ8』『キャロル』『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』など、圧倒的存在感で観る人を魅了するケイト・ブランシェット。外観だけでなく、魂の美しさも兼ね備えた希有な女優です。そんなケイト・ブランシェットが主演するこの映画は、とても気になっていました。
何の予備知識もなく観たのですが、物語が進むにつれ、「ケイトが出ている」ということは関係なく、作品の世界に引き込まれていきました。
ケイトが演じた天才的指揮者、リディア・ターは、あくまでもこの作品のためにつくられた架空の人物です。それなのに、「ターって実在の人物なのかしら?」と錯覚するほど、ケイトの演技は真に迫っていました。「役になりきる」というか「役に取り憑かれている」と思えるほどで、『ジョーカー』のホアキン・フェニックスや、『ダークナイト』のヒース・レジャーに匹敵するくらいの名演です。
じわじわと進む破滅的な物語
物語は、才能と努力で音楽界の頂点に上り詰めたターが、まだ誰も成し遂げたことのない新たな野望に挑戦するところから始まります。周囲からのプレッシャーや妬み、創作の苦しみ……。ストイックで控えめなカメラワークで、ていねいに作り込まれた美しい映像の中で、じわじわと破滅的な物語が進行していきます。これはもう、他に類を見ないサイコスリラーですね。
才能、美貌、エネルギー、人気、ステイタス……。人の世はいつも無常で、始まりがあれば終わりがあり、ピークがあれば陰りもあります。とくに音楽やエンタテインメントに生きる人たちは、常に他人の目に晒されているので、人一倍ピークアウトの恐れは大きいと思います。
名声を守り続けるための重圧と、何者かにしかけられた陰謀によって、ターは精神的に追い詰められていきます。幻聴のように頭の中に鳴り響くノイズが、やがて彼女のリアルな生活にまで広がっていく姿は、観ていて苦しくなるほどでした。どこまでが現実で、どこまでがターの妄想なのかもわからないまま、ミステリアスで悲劇的な世界にどろどろと沈み込んでいくような、底知れぬ恐怖を覚えました。