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デーブ 好きなんですよね、とにかく。調べるのが。うちの会社(スペクター・コミュニケーションズ。デーブ・スペクターが1988年に設立した、テレビ番組の企画・制作、海外番組及び海外映像・写真等の買付販売、タレントマネージメント等を行う会社)の会議室見ました? 日本のテレビ各局とアメリカの三大ネットワーク、あとはCNNやFOXニュースが流しっぱなしになってるの。便利ですよ、いっぺんに見られて。海外の新聞も今はタブレットで読めるでしょ。2台持ち歩いて新聞読む用と検索用にしてる。

デーブさんの会社の様子 ©文藝春秋

中野 日本語でも読みますもんね。あんまり日本語がうますぎるから「埼玉県出身」と東スポにすっぱ抜かれたり、実は英語が苦手って言われたり。英検三級落ちた説もあるんですよね?

デーブ 一級ですよ、落ちたのは! しかもそれ、番組の企画ですよ? 後でちゃんと自分で取りましたよ。だから僕は英検一級持ってるの。

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デーブが日本に住むようになった理由

中野 ふふふ。その負けず嫌いな一面も実はデーブさんのキャラとして愛すべきところですよね。仕事のメインって何になるんですか? 来日された時は三大ネットワークのABCの番組プロデューサーだったんですよね。でも、厳密に言えば、最初の来日は上智大学に留学した時になりますかね。

デーブ 最初は友達と遊びに来たんですよ。日本のマンガ教えてくれて、日本語を学ぶきっかけくれた菅野渡くんって友達の家族と。2週間くらいいたかな。2度目が留学。1972年。その時は1年ちょっとでシカゴに戻ってテレビの仕事しようと思って帰って、ロサンジェルスでワイフになった京子と出会ってシカゴで結婚して、1983年にそうね、ドキュメンタリー番組作るためにロケで日本来て。

中野 じゃあ最初はアメリカに帰るつもりだったんですか。

デーブ そう。ロスにマンションも買ったし、ロケ終わったら帰るつもりだった。でも日本のテレビ局で面白い映像探してアメリカに送る仕事することになって、残ったんですよね。京子も日本来て、アメリカのテレビ局お金あるから二人でホテル暮らし。日本が面白くてね。そのままずっといる。

 最初にテレビ出たのはタモリさんの『笑っていいとも!』でしたよ。なぜか人気コーナーのレギュラーになって。当時は外タレブームだったしね。今もプロデューサーですよ! もちろんコメンテーターだし、タレントだし。いや、僕のことはいいじゃないですか。