しかし、いまこの映画を見ると、夫(小林薫)が出稼ぎ先で大けがを負って入院中、行商をするなどして一家を支えるたくましい役どころに、その後の樋口へと通じるものを感じさせる。
「普通の生活をしながら、過激なことをやっていきたい」
このあと、五社監督の遺作『女殺油地獄』(1992年)に主演したが、それから10年ほどは舞台やドラマを中心に活動し、映画からは遠ざかった。久々に出演した『阿弥陀堂だより』(2002年)では、監督の小泉堯史から「芝居しないで、自然のままで」と言われ、《現場にいくまではそれが不安で。だけど、寺尾さん[引用者注:主演で夫役の寺尾聰]の隣に立ったら、飛んでっちゃった。日常生活みたいにすーっと入っていってしまって》という(『キネマ旬報』2002年10月下旬号)。これを境に、映画でも日常的なシーンを演じることが増えていった。
プライベートでは、それ以前より普通の生活をするよう心がけてきた。20代後半、激しいラブシーンを演じた『ベッドタイムアイズ』の公開時のインタビューでは、《わりと普通の生活してないとダメだなという気が最近してきました。ちゃんと普通の人として生活している時間がないと集中力がなくなっちゃったりする。やっぱり普通の神経というのが一番大事だと思うんです。なるべく普通の生活をしながら、女優として過激なことをやっていきたいなと思ってるんですけど》と語っていた(『キネマ旬報』1987年4月下旬号)。
樋口はデビュー以来、「自分の力以上のものを出さなければ仕事ではない」との信条を貫き、どの作品にも120%の勢いで打ち込んだ。それだけに、いつも撮影が終わるたび心身ともに疲れ果てていた。普通の生活を送ることは、再び気力を取り戻すためにも必要であったという。《だから私にとって普通の生活を送るのは、とても大事なことです。もしかしたら、女優として輝くより大切かもしれません。たぶん両方のバランスが取れて初めて、私らしくいられるのでしょう》とは、48歳になる直前の発言である(『婦人公論』2006年12月7日号)。
東京と京都を行き来する暮らし
この前年の2005年、樋口は夫の糸井重里(1993年に結婚)とも相談して、京都に家を持ち、東京と行き来しながら住み始めた。きっかけは、40代半ばのある日、都心の自宅マンションから外を眺めていたところ、ビルの建ち並んだ無機質な風景に急に恐怖を覚えたことだという。京都では、自然に囲まれた家で庭の手入れをしたり、無人の野菜売場で食材を買ってきてごはんをつくったりと、意外と忙しい生活を送りながらも、頭を切り替えるには十分であったようだ(『週刊朝日』前掲号)。
2011年の東日本大震災のあとには、被災地の宮城・気仙沼に設けられた東京糸井重里事務所(現・ほぼ日)の支社に足を運ぶようになる。最初に行ったときには現実の厳しさを思い知らされたが、《同時に、気仙沼の美しさや、都会では見かけないようなパワフルな人たちと出会い、いつの間にか人と土地に感動するように、気持ちが変わっていきました》という(『婦人公論』2012年9月22日号)。