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《追悼・篠山紀信》「僕は翌日からバンバン裸を撮りました」宮沢りえのヌード撮影を成功させた“りえママ”の一言

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2024年1月4日に死去した写真家の篠山紀信氏は、宮沢りえさんのヌード写真集『Santa Fe』の撮影秘話を有働由美子氏との対談で明かしていた。

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ヌードの概念が変わった

 有働 篠山さんといえば、やはり91年の宮沢りえさんのヌード写真集『Santa Fe』の話を避けて通ることはできません。

 篠山 今でもよく、あの時の撮影秘話が聞きたいって依頼が来るよ。

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篠山紀信氏 ©文藝春秋

 有働 宮沢さんはオーラ、ありましたか?

 篠山 そりゃあね。僕が『Santa Fe』を撮った時、りえちゃんは18歳の誕生日を過ぎたばかりの時で、本当に天使みたいな綺麗な人だった。汚れを知らぬ聖処女でしたね。

 いろんなめぐり合わせで、りえちゃんのヌードを撮れることになってね。こんな美しいけがれのない聖女を撮るんだったら、やっぱり僕にとっての聖地で撮ろうと思ったんだ。それが米国ニューメキシコ州のサンタフェ。僕が好きな画家と写真家が拠点にしていた場所だった。

 有働 どれぐらいの期間で撮影したんですか。

 篠山 正味3日ぐらい。ただ、僕がいくらヌードを撮る気でも、いきなり「じゃあ、すっぽんぽんで裸で立って」とは言えないでしょ(笑)。初日はほぼ着衣のカットだけ撮ったんです。ところが撮影後ポラロイドの確認をしていた時に当時彼女のマネージメントの一切を仕切っていたりえママがあらわれてね、「こんな遠くまでたくさんスタッフ連れてきて、こんな写真撮りに来たんじゃないわよ」と怒るんですよ。

 有働 つまり、ヌードがない、と。

 篠山 そういうことかと思いましたよ。その言葉を強い味方にして僕は翌日からバンバン裸を撮りました。

 有働 『Santa Fe』が世に出たのが91年。ちょうど私がNHKに入局した年です。写真集として史上最多の155万部を売り上げるなど、社会現象となりました。

 篠山 あれは本当に新しいことだったんですよ。出版されるや本屋に行列ができて、父親が買って帰って、家族で観たという話もよく聞いたし、4500円と高価だったから、小遣いを出しあって中学生が買ったというのも聞きました。学級文庫にもあったくらいだからね。

 有働 ヌードの概念が変わった。

 篠山 実際、あの写真集には劣情を刺激するようなエロティックな場面は1つもないんです。『Santa Fe』について「宮沢りえがヘアヌード」と書いた雑誌があったんです。ヘアなんてどこにあるのかって見ましたけど、ほんの2、3本見えるぐらいですよ。週刊誌の悪しき商業主義が貼ったレッテルです。

 有働 なるほど(笑)。ヘアヌードという言葉が世に広まるきっかけも、篠山さんが撮った樋口可南子さんの写真集『water fruit』でした。

 篠山 ただ僕自身はヘアヌードという言葉は樋口さんの時にも1度も使ったことはないし、大嫌いなんです。ヘアなんて頭にも生えているでしょ。人間誰だってヘアはあるからいいじゃないか、という考えだから。