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マンガ版土方歳三は「単なる田舎の悪がき」

 あの時代に生きた男たちは誰でも、今よりは断じて早く成熟せざるをえなかったろう。三十代に入ったばかりの竜馬でも、四十代半ばの顔になっていたかもしれない。

 大久保利通の最後の写真を見たときも、その消耗ぶりには胸が痛んだ。これが、四十八歳にもなっていなかった時期の男の顔か、と。そして、この人にもマンガ化の波が押し寄せたときは、どんな甘っちょろい小悪な顔にされてしまうのだろうか、と。

 ところが、話が大久保利通に及ぶ前に、著者も同じ司馬遼太郎の今度は『燃えよ剣』のマンガ版が、再び私を愕然とさせたのだった。

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書斎で原稿を執筆する司馬遼太郎氏 Ⓒ文藝春秋

『竜馬がゆく』のマンガ版は文藝春秋社だったが、『燃えよ剣』のマンガ版は新潮社刊。日本の有力な出版社二つともが、一方がこの頃流行りのお一人様たちにも気に入られそうな甘ったるいだけの竜馬、もう一方は単なる田舎の悪がきの土方歳三で、マンガ化という戦場に参戦していたのである。

 竜馬、土方とも同じ年の生れで、死んだ年も、竜馬が二年だけ先というまったくの同世代。

 この二人の生涯を書いていらした頃の司馬先生は、視覚的にはどんな二人を想像していたのだろう。竜馬は明るいヒーロー、土方はダークなヒーローというちがいはあっても、二人とも若くして生涯を終えたことでは共通していたのだから。

 日本語には、苦味走ったイイ男、という言い方がある。辞書によれば、男らしく渋く引き締まった顔だちの男を意味する言葉だという。

 だが、日本のマンガ家たちの描く男には、この種の男がいない。いたとしても武張っているだけで、成熟した男のみがもつ、品位を保ちながらのスゴ味が感じられない。この種のスゴ味が日本のマンガに見られないのは、もはや今の日本では、苦味走ったイイ男なんて現実にも存在しないだけでなく、想像の世界でも需要がない存在になってしまったからであろうか。

 つまり、すべてが幼稚ですべてがカワイイが、大手を振って闊歩する世界。

 私と時代の間は、ますます離れるばかりである。文化勲章をもらったのを機会に、堂々と時代離れ宣言をしたくなるくらいに。

(十二月十七日記)

塩野七生さんの連載「日本人へ」は、「文藝春秋 電子版」で過去分にさかのぼって読むことができます。