2005年に人気ドラマ『野ブタ。をプロデュース』(日本テレビ系)で俳優デビューし、2008年2月から放送されたスーパー戦隊シリーズ『炎神戦隊ゴーオンジャー』(テレビ朝日系)で主演を務めた俳優の古原靖久さん(37)。

 古原さんは、高校を卒業するまで児童養護施設で暮らしていた過去を持ち、YouTubeや講演会などで自身の経験を発信している。そんな彼に、児童養護施設入所後の母親との関係や、芸能界デビューのきっかけなどについて、話を聞いた。(全3回の2回目/1回目から続く)

俳優の古原靖久さん ©深野未季/文藝春秋

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過酷な生活の中で息抜きになっていた「週末里親」

――古原さんは子ども時代、児童養護施設で厳しい生活を送っていたそうですが、当時一番辛かったことは何でしたか。

古原靖久さん(以下、古原) やっぱりずっと1人で、みんなの矢面に立って施設の先生に怒られ続けたことですね。先生には信用されないし、ずっと周りに人がいるんだけれども、僕の味方は誰もいない。独りぼっちみたいな感じだったので、それが一番きつかった。

――そうした状況の中で、心の支えになっていたものはありますか。

古原 『ドラゴンボール』ですね。一番好きな漫画なんですよ(笑)。あとは週末里親制度も、過酷な生活の中で息抜きになっていました。

――「週末里親」は、月に1~2回程度、週末などを利用してボランティアの里親家庭で過ごす制度ですよね。

古原 そうです。最初は、知らない人がいきなり親のように接してくるのは嫌だなと思っていたんですけど、僕が行った里親家庭はすごくいい方々だったんです。僕のことをすごく自由にさせてくれて、いろいろなところへ連れて行ってくれました。

 施設では、ずっと正座をさせられる日々を過ごしていたじゃないですか。先生の前で正座して、勉強する振りをして、みたいな。だから、施設の外へ出るだけで嬉しいわけです。そんな僕が、動物園に連れて行ってもらったりして、本当に楽しかった。そういった意味では、週末里親はずっと続けたかったですね。

 

――週末里親はいつまで続いたのですか?

古原 小学3、4年生のときから、6年生ぐらいまでです。里親家庭のおばあちゃんが体調を崩したりして、それでなくなったんだと思います。そのあたりの記憶はあいまいですけど。

お母さんに会いに来てほしいから、わがままは言えなかった

――お母さまは16歳で出産して、古原さんが5歳の時に児童養護施設に預けたそうですね。最後にお会いしたのは小学5年生のときだったとか。

古原 そうです。最後に会った時、お母さんの財布を見たら2000~3000円しか入ってなくて。わかってはいたけど、小学生ながらに「お母さん、生活が苦しいんだな」と思うと辛くなりました。