親戚の家というのは、なぜこうも寄る辺なく感じるのだろう――そう思わせる屋内の描写、たとえば空っぽのダイニングキッチンに薄日の差すようなカットが、とてもいい。コットがバスタブに足を浸すと、湯が熱い。よその家の湯温は、たいてい熱かったり、ぬるかったりするものなのだ。
そうして慣れない環境に不安を覚えるコットを、中年夫婦のアイリンとショーンは優しく迎え入れる。
アイリンはコットの頬に触れ、浴室では彼女の手足を磨き、一緒に手をつないで歩く。考えてみれば、コットが父母とスキンシップを取る場面はどこにもなかった。だからこそ、そういった肌と肌とが触れ合う場面にぬくもりがこもる。
一方のショーンは無骨で、コットにおやすみと声をかけられても応えず、テレビから視線をそらさない。でもアイリンの手伝いをしているコットのそばに、小さなクッキーをそっと置き、なにも言わずに立ち去ったりする。なんて不器用なごほうびの仕方なのだろう。
おとなしいからといって、感性が鈍いわけではない
そういったささやかな優しさの積み重ねが、うつむきがちな少女の固くこわばった心をほぐしていく(実はその優しさには、ある悲痛な思いが秘められていることが次第にわかる)。
とはいえ、コットが新たな生活に慣れ、少しずつ変化していくところを、この映画はあからさまなかたちでは描かない。
あからさまでないというのは、この映画が言葉以上に、もっと曖昧なものを大事にしていることの証だ。
コットは周囲から「おとなしい子」とよく言われるとおり口数が少ない。彼女がアイリンやショーンと囲む食卓は、会話が弾むこともなく、静かな気配に覆われている。沈黙、といっていい。
でもその沈黙の向こう側で、少女の繊細な感性が揺れ動き、また豊かに育まれていることを本作は映す。
言葉を思うように話せないコットには、自身をなんの価値もない、ちょっと鈍い子だととらえている節がある。だが牛の世話をしていて、子牛は粉ミルクを飲まないといけない、なぜなら搾った母乳は人間に売ってしまうから、と知ったコットは鋭く指摘する。子牛が母乳を飲み、人間が粉ミルクを飲むべきじゃないか、と。おとなしいからといって、コットの感性が鈍いわけではないのだ。