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 それでも、子供の養育費だけは一度も遅れることなく送金し続けたという。石田としても必死で、来る仕事は何でも引き受け、クイズ番組で顔にパイをぶつけられたりもした。

 石田はのちに当時を振り返り、《結局のところ、妙なプライドを捨てたことがピンチからの脱却につながったんじゃないかな。「主役を張ってた自分」に固執していたら、早々に芸能界から消えていたかもしれません》と語る(『週刊現代』2018年12月1日号)。美輪明宏からも「あんた、あれがなかったら、ただの老俳優じゃないの。あれで違う立ち位置をもらったんだから、いいじゃない」と言われ、腑に落ちたという(『アサヒ芸能』2023年7月6日号)。

©文藝春秋

「あきらめが悪い」という長所

 石田は2000年に自伝『落ちこぼれのススメ』(光進社)を上梓しているが、これを読むと、彼の逆境に立たされたときの踏ん張りの強さに驚かされる。そこには、根っからの楽天的な性格とあわせ、ある種のあきらめの悪さ(あまりいい言い方ではないが)がうかがえる。24歳で「演劇集団 円」の研究生となり、俳優の道に踏み出したときからしてそうだった。

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 早稲田大学在学中、演出家を志した石田は、大学を休学してカリフォルニア州のアメリカ演劇アカデミーに2年間留学し、帰国後は映画会社に就職しようとツテもないまま回った。「円」は、このとき会った、ある映画会社の重役が「いまの映画会社は人材を育てるシステムがないので、映画の世界にこだわるより、別な道を探ってはどうか」と言って紹介してくれた。

 しかし、いざ研究生になる試験を受けるべく願書を取りに行くと、今年はもう締め切ったと言われてしまう。その日は一旦帰ったが、どうしても気持ちが収まらず翌日、再度赴くと、ちょうど面接が行われていた。そこで粘ると、運良く受験させてもらえた。このときの面接官の一人に俳優の橋爪功がおり、ふいに「おまえ、野球やっていなかった?」と言われる。じつは橋爪は石田の都立青山高校の大先輩で、彼が高校時代に野球部のピッチャーとして東京都大会でベスト16まで行ったことを覚えていたのだ。おかげでその場で合格が決まったという。

姓名判断により芸名を変更

「円」の研究生時代の1979年には、山田太一脚本の『あめりか物語』でドラマデビューを果たす。その役どころはアメリカの日系3世で、英語がしゃべれるということで採用されたらしい。このとき姓名判断により、それまで名乗っていた芸名「石田純」に、山田太一から「一」の字をもらって「石田純一」と改めている。