『こころ』は読まない
養老 「心」の代わりに僕がよく使うのは、「意識」という言葉です。「心」は「情(こころ)」と書くこともありますよね。東畑さんが扱っておられるような日常の細かい気持ちの動きまでを含んでいるので、「心」という言葉を自分の考えの中に入れようとすると、本当にとりとめがなくなってしまう。だから、僕は、漱石はわりあい好きでよく読むんですが、『こころ』だけは読まない(笑)。
東畑 そうなんですか。今日はその話をしたいと思って『こころ』を読み返してきたんですが……(笑)。
養老 もちろん読んだことはあるけど、読み返す気がしないんです。
東畑 どのあたりが問題なんでしょうか?
養老 今日の話の腰を折ろうとしているわけではないのですが、「心」とは何か、やっぱり僕には分からない。確か心理学者のヴィラヤヌル・ラマチャンドランが、心の機能を20以上に分類していましたね。そのくらい分ければ分かるだろうと。でも、部分が分かったら、全体が分かるかというと、たぶん逆で、部分が分かるほど、全体は分からなくなる。ものを顕微鏡で100倍にして見たら、見たいものは拡大されて、よく見えるんだけど、見ている対象が置かれている環境も100倍に拡大するわけです。それと同じです。
東畑 なるほど。『こころ』を読んでいると、まさに人の「心」が「分からない」ことがテーマになっています。語り手の「私」は「先生」が何を考えているか分からない。先生は先生で、周りの人の気持ちが分からない。
養老 相手の気持ちについて、僕はある時から考えないことにしたような気がします。分からなくていいし、分かるわけがないだろうと。
東畑 そうなんですか(笑)。でも、みんな人の気持ちが分かりたくて困ってますよね。
養老 人の気持ちなんか分かるわけがないと、決めちゃえば楽になりますよ。
東畑 心は要らない?
養老 そうです。
東畑 心は要らない。僕は、日本社会全体がだんだんそうなってきたような気がしています。僕が思春期だった1990年代は、心理学者の河合隼雄ブームでした。彼は心について多くの専門書を著し、一般の読者に向けても、心について常に発言していました。それが2000年代に入ると脳ブームがやってきて、心の問題も脳で解決すればいい、というムードに移り変わっていった。
そして現在は、行動経済学などのように脳のメカニズムと確率・統計を組み合わせて、人間の行動を説明するようになってきて、そこでも「心」の出番はありません。実際、その説明は切れ味がいいのですが、それで自分の「心」や僕のところに相談にくるクライエントの「心」を説明されても、心の問題は解決されないし、違和感が残ります。
養老 おっしゃるとおり。だから僕はよく「統計とは現実か?」という質問をするんですけど、どうなんでしょうか?