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統計は「嘘だと思う」

 東畑 僕は集団の問題を考えるにはいいにしても、個人的な問題を考えるにはあまり意味を持たないと考えています。カウンセリングは基本、個人に固有のことを考えるので、なかなか難しいなと思いますね。

東畑開人氏 ©文藝春秋

 養老 僕もほぼ嘘だと思う。統計はマクロの問題を解決するには、有効かもしれないけど、個人には使えないんです。たとえば、僕は20歳からタバコを吸っていて、統計的にはタバコは死亡率が高いというけど、僕も僕の周りも「誰も死んでないよ」という話になりかねない。でも、統計で物事を考えると、タバコは悪いものであり、やめるべきものになってしまう。

 東畑 確率でものを考えると、「心」は消えてしまうんです。タバコは統計的に身体に悪い。だからやめるべきだ、以上、となると、吸うべきか、吸わざるべきかと迷い悩んでいる自分がバカみたいですからね(笑)。それはつまり、自由意志をはたらかせる「心」の場所が消える。

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 最近、アウグスティヌスの『告白』を読んでいたのですが、そこではアウグスティヌスがマニ教徒からキリスト教徒に改宗する経緯が語られています。マニ教は善悪二元論ですから、人間が悪をなすのは、悪の力に唆(そそのか)されたからで、その原因は人間にはない。でも、「神は世界に悪を作らない」というキリスト教においては、人間が罪を犯す原因は、神と世界の側ではなく、人間の側にあります。アウグスティヌスは神にこれまでの自分の行いを告白することで「より善く生きる」ことを選択していける自由意志を発見していきます。そういう彷徨える感じに、「心」があるように思えるんです。

 養老 そういうのを聞いていると、アウグスティヌスにしても、漱石にしても、僕は「それはあんたの話でしょう」と思ってしまうんです。

 東畑 なんと、徹底してますね(笑)。

 養老 「それであんたが気持ちよくなれば、それでけっこうです」と言いたくなってしまう。

 東畑 なるほど。そうすると、心について考える必要がなくなってくるという話ですか(笑)。

 養老 そうですね。心については、できるだけ考えないようにしてきました。僕は虫が好きでね。だから、何か葛藤があると虫捕りに行っちゃう。で、虫を眺めている。虫はアウグスティヌスみたいに格闘も告白もしないけれども、ちゃんと生きている。告白は、あくまでその人の話でしょう。だから、別に聞いてもしょうがねえよ、と思ってしまう。

 東畑 僕の仕事は、それを聞くことなんですが……(笑)。

 養老 それはとても大事な仕事で、人助けですよ。僕はおよそ人助けに縁がないんだな。

父の死と挨拶

 東畑 養老さんが「心は要らない」と断言するに至るまでに、自分の「心」を支えるような物語を作ることはなかったのですか。

 養老 4歳の頃に父が死んだことについては、そのようなことがありました。僕は中学、高校時代はとにかく挨拶ができなかった。母によく「なんでそんな簡単なことができないの」と言われていました。

 その原因を探ると、父親が死ぬ時の臨終の場に行き当たりました。4歳だった僕に親戚の誰かが「お父さんにさよならって言いなさい」と言ったんです。言葉が出なくてつかえたまま、じっと父の顔を見ていたら、そこでニコッと父が笑って、喀血して、亡くなりました。その後、大人になったある時、俺が挨拶できなかったのは、父の臨終の場と関係があるんじゃないかと思った。

 そう思った瞬間に今、自分の中の父が死んだという気がして涙が出てきた。つまり、昔の僕は父に「さよなら」と言えなかったことをチャンスと捉えた。自分が「さよなら」という挨拶を言わなければ、自分の中では父は死なない。そう無意識に思って、挨拶をしないことで、父親の延命措置をしていたようなんです。精神科に行った同級生から、「生きた精神分析を初めて聞いた」と言われましたが、やっぱりこれは、「心」の話ですね。

 東畑 それは自分がどれだけ悲しかったのかを、時間が経って物語化することで悲しむことができたという話ですよね。

 養老 そうですね。その後は行動が楽になりました。

本記事の全文「心の悩みの現在地」は、「文藝春秋」2024年2月号、および「文藝春秋 電子版」に掲載されています。本稿は2023年12月6日に「文藝春秋 電子版」ウェビナーで行われた対談を再構成したものです。