「彼は潜在的に才能があって知的な人間だけど、自滅に突き進んでるように見えた」
バンド仲間と距離を置くようになった彼は、ロンドン近郊の農場を買い取って暮らし始めた。そこは『くまのプーさん』の作者、A・A・ミルンが暮らした屋敷。庭に大きなプールもある。やがて1969年6月、ブライアンはバンドを解雇される。それから1か月もたたず、自宅のプールで亡くなっているのが見つかった。享年27。彼の死の真相について映画は様々に検証している。
ストーンズさえあればいいと言っていた学生時代
その後、同じく27歳で不慮の死を遂げるロックミュージシャンが相次ぐ。ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソン(ドアーズ)。間をおいてカート・コバーン(ニルヴァーナ)。“27クラブ”と呼ばれる夭折者の先頭にブライアンはいた。
私がストーンズを聴き始めるのはその後だ。最初は高校生の頃、発売されたばかりの2枚組ライブ盤『ラヴ・ユー・ライヴ』だった。『ブラウン・シュガー』『イッツ・オンリー・ロックンロール』といった“ブライアンのいない”ストーンズのヒット曲が多いが、C面はすべてブルース、R&B、R&Rの名曲をカバー。しかもキャパ500人ほどのクラブで収録されている。今なら考えられない。売れる前のように限られた客を相手に好きな曲ばかり演りたかったのだろう。それは亡きブライアンが愛した曲でもある。
大学生になっても私はストーンズが一番好きだった。ある晩、東京・下北沢のブルースバー「ストンプ」でグラス片手に「音楽はストーンズさえあれば僕はいいよ」と傲慢にも言い切った。するとマスターが渋い顔で「お前は何にもわかってないなあ。ストーンズがどんな曲を聴いて育ったと思ってるんだ? そこを聴かなきゃダメだろう」。
それが、ブルースだ。この店で聴き始めて私はやっとわかった。そうか、ブライアン、あんたはこういうのが演りたかったんだな。マディ・ウォーターズやボ・ディドリー。あんたの英雄であるブルースの巨匠たちをまねているうちはよかったな。自分の世界に浸ってスライドギターを鳴らしていられる間は幸せだった。でもバンドが求めるサウンドは、あんたが演りたかったブルースから離れてしまったんだ。
驚異的な演奏で魅せた最後の輝き
「彼は常に苦しんでいて不安定だった。精神的問題を抱えてたんだ。今思えば双極性障害(躁うつ病)だったのかもしれない」(ギャレット・マンゴゥウィッツ 写真家)