でも、学校で「運動神経が鈍い」とか「身体能力が低い」と判定された子どもたちだって、みんな身体を持っているんです。身体を使う喜びを経験したいと思っている。自分の身体に敬意を持ちたいと思っている。でも、そういう95%の「ふつうの子」には体育の先生は興味がない。一人一人が蔵している可能性を最大化する仕方って、教えないじゃないですか。僕は数百万の「鈍くさい子」たちが自分の身体可能性を開花させることの方が、大谷翔平をもう一人つくるよりも身体教育としてはずっと大事なんじゃないですか、ということを申し上げたんです。
高橋 本当にそうだよね。
内田 僕自身は、子どものときに心臓弁膜症になって、中学卒業するまで激しい運動ができなかったんです。ふつうの子どもは、外で遊びながら身体の使い方を覚えてゆくわけですけれども、その経験がごっそり抜けているんです。だから、大人になってから身体の使い方を体系的に学ぼうと思って武道の道場に入った。それしかやり方がなかったんです。たまたま幸運にも多田宏先生に出会って、自分の身体を使う喜びを知ったわけです。
身体能力が高い人が経験する「身体を使う喜び」と、身体能力が低かったり、身体が弱かったりする人が、工夫しながら自分に割り当てられたわずかな身体資源を活用して動く喜びは、ずいぶん違うものじゃないかと思うんです。
もうろくの話に戻すと、弱い体・動かない体・衰える体を通じても、身体を使う根源的な喜びを発見することは可能じゃないかと僕は思うんです。
高橋 もうろくに宿る老いの本質は、鶴見さんが最後に残した宿題のように思います。おそらく、人間的な変化のプロセスの本質的な形がそこにはある気がするんですよ。
鶴見さんもまた体が弱い人だった。だから彼の思想は自分の生きた経験、身体に裏付けされたものに基づいていた。老いってダイレクトに身体的な問題ですよね。歩けなくなる、膝が痛い、よく眠れない、腰が痛い、そして記憶力が無くなってくる……昨日より今日と、少しずつ、でも確実に衰えていく中で、「自分」でいられるにはどうしたらいいかというのが、鶴見さんの最後の15年のテーマでした。老いていく身体――そんな自分を世界と向かい合わせながらどんなふうに最後に向かっていくのかを実況中継してくれている。
僕はああいう仕事が最後にできるといいなと思っているんですよ。僕の書く小説には身体が出てこないから。
内田 えっ、そうなの? 若いころこのまま土建の専門家として生きていこうと思っていたら、腰を痛めてしまったのを機に小説を書き始めたんじゃなかったっけ。
高橋 でも、そういうことは全部、小説の外側に置いておくことにしています。だから、小説を書くとき何の情景も浮かばないし、外形的な想像もしないし、描写もしない。僕は、たぶん言葉しか見ていないと思います。ある意味で、親鸞と一緒ですね。言葉を見て、言葉について、言葉のことを書いている。
『ぼくらの戦争なんだぜ』のような戦争をめぐる批評でも扱うのはあくまでテキスト。戦争小説だったり、兵士が戦場にいって書いた手記や詩についてのみ書いています。あるいは戦争をめぐる言説について。書かれたテキストについてならきちんと分析できる自信があるんです。
内田 現実そのものではなく、そこから派生した言葉を分析しているということですか?
高橋 そう。シャーロック・ホームズの兄のマイクロフト・ホームズっているでしょ。絶対に自分の机から、動かない人。兄のほうは現場には行かず、聞いた話だけで推理をするんだけど、シャーロックより正確なんですね。僕は、マイクロフトタイプ(笑)。