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「人生で重大な問題ほど、即答したほうがいい」弱くても、動かなくても、もうろくしても……身体は答えを知っている

「人生で重大な問題ほど、即答したほうがいい」弱くても、動かなくても、もうろくしても……身体は答えを知っている

内田樹×高橋源一郎 その2

source : ライフスタイル出版

genre : ライフ, 読書, 社会

note

内田 なるほど、高橋さんて病的なまでに英知的な人なんですね! 貴重なことを聞きました(笑)。僕は身体感覚による裏付けがあるものしか言葉にできない体質なんです。ぼんやりした、星雲状態のアモルファスな身体経験を、できるだけ明晰な言葉にしたいというのが僕の願いなんです。

 身体と言語ということについて言うと、アルベール・カミュが僕の理想なんです。カミュはすばらしく感度のよい、上質な身体を持っている一方で、常人ではなかなか言葉にできないような微細な身体感覚を言葉化できる卓越した言葉の使い手でもあった。だから、カミュにおいては、身体感度を上げてゆくということと、鮮度の高い言語表現を達成することが一致していた。これは稀有の例だと思います。

内田樹さん

高橋 なるほど、僕にはできないと思っちゃうけど(笑)。もう一つしたい話があって、しばらく前にミュージシャンの大友良英さんと話をしたんですよ。彼は、僕の8つ下で59年生まれなんですが、音楽に関しては共通体験がある。それは、中高時代に大友さんが触れた音楽はすべて「誰々君のレコードを借りて聴いた」「誰々君が弾くのを聴いて知った」と、友人の固有名詞付きなんですね。受験校にいて、早熟の天才に囲まれていた中・高校生時代、僕が触れるものは、音楽にせよ本にせよ、すべて友人経由だったのとよく似ています。

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 それから、大友さんは高柳昌行という有名なジャズギタリストのもとに習いに行っていたそうですが、そのたくさんの弟子たちのなかで一番下手だったと言っています。渡辺香津美のような天才は、弟子が普通2年かかるメソッドを3か月でやってのけてしまう。だから大友さんは、自分は何をやっても下手で遅いという感覚をずっと持っていた。でも気づいたらミュージシャンとして残っているのは自分だけだった、と。

 僕も同じで、周りが天才ばかりだったので、詩を書いても、小説を書いても、ジャズを聴いても、映画を見ても、全部誰かに劣っていた。自分には突出したものが何もなくて、ずっと自分が一番遅れているって思っていました。けど、気がついたら残って、いまも書いているのは僕だけだった。

「二人とも遅れて良かったね」って話をしていたのですが、僕は決して文章のエリートではなく、いまだにどこかで「いつか作家になりたい」と思って書き続けています。この「遅れている」という意識こそが、作家を成熟させていくのかもしれませんね。そこには終わりがないのだから。

内田 レヴィナスに、「始源の遅れ(initial après-coup)」という言葉があります。自分は世界の創造に遅れてやってきたという、人間における宗教的覚醒のことなんですけれど、信仰の一番基本にあるのは、この「遅れている」という感覚だとレヴィナスは言うんです。この世界には自分がやってくる前にすでに「誰か」がいて、その人が設定した場に自分は後から参入してきた。そこがどういうゲームのルールで成り立っているかはわからない。でも、すでにプレイヤーとしてそのフィールドに放り込まれているから、何かしなければいけない。必死にプレイをしながら「これは一体どういうゲームなのか」「このフィールドはどういう構造になっているのか」「自分はプレイヤーとして何をすることを求められているのか」を学ばなくてはならない。それを「始源の遅れ」と言う。

高橋 まさにそれ!

内田 レヴィナスはそれを一神教信仰について語っているわけですけれども、師に就いて武道を修行することもそれと同じなんですよね。弟子はやっぱり「始源の遅れ」のうちにいる。修行しているんだけれど、どういう目的地に向かっているのか、自分は全行程のどの辺にいるのか、このあと何をしたらいいのか、そういうことは決して一覧的には開示されない。先生に「僕はいったい何をしているんですか?」と訊いても、そのつど違うことを言われる。多田先生もそうですし、孔子も、親鸞も弟子の問いに対してそのつど違うことを即答する。