街場の成熟論』が話題を呼ぶ内田樹さんと、『一億三千万人のための「歎異抄」』を上梓した高橋源一郎さん。長年の盟友である二人が「成熟」をテーマに縦横無尽に語り合った。

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高橋 内田さんに会うのは数年ぶりですが、以前今や休刊になった『SIGHT』という雑誌で対談シリーズをずっと一緒にやっていました。そのときにはだいたい、まず僕から話して内田さんがレシーブする習慣でしたので、今日もそのスタイルでいきたいと思います。

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内田 はい、よろしくお願いします。

高橋 僕も最近、『一億三千万人のための「歎異抄」』という本を出しました。「一億三千万人」という冠がついた本はこれで3冊目ですが、前の本の『論語』に続いて、親鸞の『歎異抄』を訳したんですね。本が出た後、そういえば、どちらも〈先生と弟子の話〉であることに気がついた。僕はいままで、いわゆる「翻訳」は3つくらいしか手掛けてなくて、『論語』の前は80年代にやった、アメリカの青春小説、ジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』なんです。

内田樹さん(左)と高橋源一郎さん(右) 撮影・釜谷洋史(文藝春秋)

内田 はいはい、当時読みました。すごく面白かったです。

高橋 あれは、すごく変わった小説で、二人称で書かれています。だから、文中ずっと「君は」って呼びかけているわけなんですが、そもそもそれを呼びかけているのは誰だろうと思ったんです。もちろん作者なんですが、その「語り手」は、主人公をずっと見守って成長を促そうとしている。つまり「先生」なんです。だから、僕は、「先生的な存在が誰かを成熟させる」物語を無意識で好んできたんじゃないか。そのことに、30年ぶりに気づきました。

 でも、先生とはいっても孔子も親鸞もちょっと変わっていて、「教えない」先生なんですよね。例えば孔子は「仁とは何か」について『論語』で何十箇所も弟子たちから訊かれています。でも、弟子によって全部答えが違う。「君にとっての仁」を語るだけで、決して「正解」は教えない。

 親鸞は親鸞で、弟子の唯円の質問に答えるけれど、さっぱり答えになっていない。親鸞になにか言われるたびに唯円が余計に混乱していくのがすごく面白い。

内田 教育ってそういうものじゃないですか。師は弟子を困らせる。徹底的に困らせる。「困る」のは、弟子が今使っている知的なスキームでは師の教えを処理できないからです。だから、それを手放すしかない。困った末にもう少し大きめの知の枠組みに切り替える。人間的成熟というのは連続的な自己刷新のことですから、自分の知的スキームに居着いたら成長できない。ですから、師匠というのは必ず弟子に答えの出ない難問を与えますね。

高橋 そう、だから師匠とか先生っていうのは、弟子を困らせるための存在なんだよね。そしてもうひとつ面白いのは、親鸞も孔子もやってることが実は「作家」と同じだと思うんですよ。

内田 どういうこと?