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高橋 街場っていうのは実に便利な言葉で、これは「あらゆる場所」を指していますよね。“オン・ザ・ストリート”で、いわば“オール・オーバー・ザ・ワールド”。成熟ってどこかにこもってするものじゃなくて、いつでもどこでもどんな問題に関してもできる。だから、この本でもウクライナの話から安倍晋三の問題まで多岐にわたっていて、その都度言うことは異なるけれど、結局、みんな同じ地平にたどり着くのが面白いですね。

高橋源一郎さん(奥)と内田樹さん(手前)

内田 「成熟/未熟」って、「真/偽」とか「善/悪」とか「正/否」というような二項対立じゃないんでしょう。未熟は成熟に至る途中の過程ですし、成熟だって「ここでおしまい」ということはない。成熟と未熟はアナログな連続体をなしている。だから、成熟した人間が未熟な人間に「屈辱感を与える」とか「処罰する」とか「排除する」ってことは本来あり得ないです。

 僕は、人間世界のほとんどすべての事象はアナログな連続体であって、デジタルな二項対立で切りさばけるようなものって、実際にはほとんど存在しないと思うんです。だから、そのことを一生懸命説いているんです。だって、「こちらが完全な正義で、あちらが完全な悪だ」というタイプの二項対立的言説がどれほど世の中を不幸にしているか、日々思い知らされていますからね。

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 パレスチナ問題にしても、「内田さんはどっちが正しいと思いますか?」って聞かれるけれど、そんな問いにクリアカットに答えられる人の方がどうかしていると思う。どっちにも言い分があるに決まっているんですから。両方にいくぶんかの正義があり、いくぶんかの不正がある。僕らにできるのは、両者の言い分を聴き比べて、「こっちの方の言い分の方により説得力がある」というふうに判断するだけです。その「程度の差」を感知できる知性が大事だと思うんです。だって、世の中の対立って、全部「程度の差」の間で生じているわけじゃないですか。「五十歩百歩」と言いますけど、「五十歩」と「百歩」ではずいぶん違う。この五十歩の差が人の生き死にの境になることだってある。『成熟論』では、この程度の違いを感知して、判断できる計量的な知性がたいせつだということをあの手この手で書いているわけです。

高橋 まったくその通りで、あと内田さんはよく「大人がいない」という言い方をしますよね。僕が思う「大人」とは、正義を振り回すわけでもなく、何か決定的なことを言うわけでもなく、「ちょっと待って」と言える人。「それぞれに主張があるでしょうが、ここはちょっと一休みしませんか」と、“休戦”を提案できる人が成熟した大人だと、僕は思います。

内田 そうです。「ちょっと待って」ってすごく大事な呼びかけだと思います。昨今、生成AIテクノロジーが異常な勢いで進化していますけれど、今、これを一旦止めようという議論がアメリカで出てきています。techno-prudentialismというらしい。prudentialというのは「慎重な、細心の」という形容詞です。だから、これは「技術開発については慎重に主義」、ということになります。こういう考え方がアメリカでも出てきたことにちょっと驚きました。これはまさに「ちょっと待て主義」ですね。