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高橋 僕自身はリアルな師弟関係をもったことはないけれど、僕にとっての「先生」は先行する作家たちなんですね。トーマス・マンとか、カフカとか。

 死んでいる人間はどうやって「先生」になるのか。まず本を開いて読むんです。テキストを読んでも、当たり前ですが、ほとんどの作家は死んだままです。ごくまれに生き返る作家がいる。「生き返る」とはどういう意味かというと、毎回違うことを言うんです。生きている人間のように。

 死んでいる作家は何回読んでも同じことしか言わないけれど、カフカとか、マンのような作家は読むたびに前とは違うことを言ってるように、僕たちは感じる。どうしたらいいかわからないときに読むと、世界の掴み方を示唆してくれる。「こういうところ見たら?」と。「前回先生そんなことおっしゃらなかったでしょ」と言うと「あのときにはまだ君は、僕の言うことに気付いていなかったんだよ」と対話が生まれる。もちろん、それは、僕が成長した結果でもあるんですが、それがわかるためには、「先生」に出会う必要があるんだと思うのです。

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 何百年も前の人間でも、僕にとって生きている先生は雄弁に見える。僕は『歎異抄』を読んで、親鸞の750年後の弟子になった。孔子にいたっては亡くなって2000年もたって、弟子になった。弟子のニューフェイスというわけですね。

内田樹さん

内田 今の話をうかがうと、僕とレヴィナスとの関係もそれとほぼ同じだと思いました。実際にレヴィナスに会ったのは1回だけで、あとは手紙のやり取りと、死せるレヴィナスの本をひたすら読んできただけです。最初の頃はレヴィナスが何を言いたいのか、まったく分からなかった。でも、「写経」するように翻訳をしてフランス語を日本語に置き換えているうちに、だんだんと言葉づかいが身体になじんできて、繰り返し読んでいるうちに、ああ先生がおっしゃりたいのはこういうことだったのか、と。少しずつ目が開いてきた。読解力というのは僕自身の人間的成長に相関していたんです。でも、すべての書物がそういう教化的な力を持っているわけじゃない。人間的な成長と読解力が相関関係にあったのは、僕にとってはレヴィナスだけです。

 やはり文学でも哲学でも「カノン(正典)」と呼ばれるものは、無限の解釈・可能性に開かれている。ただ、たくさんの人の多様な解釈が水平にずらっと並んでいるわけじゃなく、一人の読者の解釈でも読者の人間的成長に応じて少しずつ深まってゆく。だから、解釈はどんどん変わるわけです。けれども、レヴィナスが「本当に言いたかったこと」を確定的に語ることは弟子には永遠にできない。

高橋 そういう仕方での成熟って確かにあると思います。先生という存在は、いわば鏡のように「前回気がつかなかったこと」を鮮明に映し出してくれる。その繰り返しを成熟と呼ぶのかもしれませんね。

 今回『街場の成熟論』を読んであらためて思ったんですが、内田さんはあらゆることで本質的には同じことを言ってるじゃないですか。

内田 その通りです(笑)。