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高橋 親鸞は、「称名念仏」といって、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、あとは何もしなくてもいい、としています。でも、考えてみるとこれはかなりおかしな話で、当時から論争がありました。というか批判されていたんです。「念仏を唱えるだけで浄土に行ける? ただ言葉を呟くだけで、あとはなにもしなくていい? そんなのおかしいじゃないか」って。親鸞のやり方では、心の中では「アカンベー」していても念仏を唱えさえすれば救済されるなんてあり得ない、と。

 しかし親鸞は「内心で何を考えていようと、ただ唱えるだけでいい」――つまり言葉だけでいいといったのです。これって作家の考え方なんですよね。僕たち作家には、そもそも、試験の問題に出てくるような「この作家の真意」なんてものはありません。出来上がった言葉が全てです。その言葉によって、作家がまるで何かを考えているように見えるそれが文学です。親鸞の考えでは、それは信仰も同じで、「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば「思った」ことになる。

高橋源一郎さん

内田 念仏だけ唱えていれば、心の中で信仰があろうとなかろうと構わない、極楽往生できますというのはやはり親鸞から弟子への極端な問題提起だと僕は思うんです。どう考えても「そんなこと」おかしいから。口先だけの念仏で宗教が成立していいはずがない。でも、師はそれでいいと言う。そこで弟子は悩むわけです。そして、最終的には「南無阿弥陀仏」という音声は確かに実在するけれど、自分の心の中に信仰が実在するかしないかは自分では検証できないという事実に行き当たってしまう。自分の信仰を自分で基礎づけることができない。たぶんその自覚が信仰のスタートラインなんじゃないかな。

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高橋 そう、だから親鸞は弟子を一番根本的な問題で困らせてるわけなんですね(笑)。

内田 昔、僕の合気道の師である多田宏先生にロングインタビューしたことがあって、貴重な話をいっぱい伺って、テープレコーダーを片づけて、先生と並んで道場を出るとき、ふと「先生、最後にこんなところでなんですけど、武道修行の一番大事な心得はなんでしょう?」と聞いたことがあるんです。そしたら、先生が目の前の玄関口の看板に書かれていた「脚下照顧」という文字を指さして、「足元を見ろだよ、内田君」と答えたんです。僕はびっくりして、さすが武道の達人はすごいと感心したのです。

 でも、それからずいぶん経ってから、ふと、僕がもしあの質問を吉祥寺サンロードを歩いている途中で口にしたら、そのとき先生はどう答えたか考えたんです。もしかしたら、「歳末大感謝」の看板を指して、「機を見る心だよ、内田君」と言ったかもしれない。吉祥寺駅まで着いていたら、JRの「そうだ。京都、行こう。」というポスターを指して、「直感に従えだよ、内田君」と言ったかも知れない(笑)。

 たぶん、そうだと思うんです。多田先生はあらゆる場面で、弟子からの質問にそのつど即答しただろうな、と。孔子の「仁」もそうだと思うんです。弟子が「仁って何ですか?」と質問するたびに、そのとき手元にあったもので即答する。だから、そのつど言うことは違うんだけれど、すべてが繋がっている。それは、弟子により考えさせるということですね。