昨今、SNSではさまざまな政治的イシューをめぐってトゲトゲしい言葉の応酬が見受けられる。新著『街場の成熟論』を上梓した内田樹氏が伝える、大人の知的な節度とは?(全2回の2回目/前編を読む)
◆◆◆
学生運動の時の学生と昨今の風潮が似ている点
――SNSではインフルエンサーと言われる人たちの罵詈雑言や、ディスりあいも多く見受けられますね。
内田 長く生きていると、「語り口」に周期的な流行があることがわかります。昨今の風潮は、60年代終わりから70年代にかけての学生運動の時の学生たちの語り口とかなり似ている。
あの頃、極左の諸党派は、自分たちだけが階級的な正義を実現していて、他党派は全部間違っているので打倒しなければならないと声高に批判しあっていた。ほんとうにわずかな綱領の違い、言葉の違いで、同じ活動家同士で罵倒し合い、ついには内ゲバで殺し合いまでした。
僕はそれを横で見ていて、何やってんだよと思っていました。だって、民青だって全共闘だって根っこは同じマルクス主義者で、日本の学生たち全体の政治意識の分布で言ったら、全体の2パーセントくらいの狭いところにひしめいているわけでしょ。外から見たら見分けがつかないんです。「午後5時30分の黄昏の色」と「午後5時31分の黄昏の色」の違いを言い立ててどうするんだ、と。
結局、その左翼内部の党派闘争そのものは日本全体の政治状況にかかわりを持つことができずに消滅しました。でも、その虚しさの余波は残って、そのあと今度は「自分の身の丈にあったことだけをささやくようにボソボソと語る」という反動が来ました。「等身大」というのがこの頃のキーワードでした。「肉体の復権」というようなスローガンが掲げられたのも、政治思想の暴走に歯止めをかけるのは生身の身体だという痛苦な反省があったからだと思います。「大きな主語で一般論を語るのは止めろ」という言葉が批評性を持った時代です。
でも、人間は「大きな主語で一般論を語る」ことの誘惑にほんとうに弱いんです。その後に今度は極左の政治思想に代わるかたちでフェミニストたちが登場してきた。すると、かつてマルクス主義者がやったのと同じ語法で、ただし今度は「階級」に「ジェンダー」を代入した文型がそのまま使い回された。断定的にものを言うマナーも、主義主張の違いをうるさく言い立てて、外から見たら見分けがたく似ている人たち同士が激しく罵り合うのも、左翼の場合とよく似ていました。
古典として読み継がれる作品が描いていること
――なるほど。
内田 僕が90年代に、上野千鶴子さんらを相手にフェミニズム批判の論陣を張っていた時に、訴えていたのは、フェミニズムは社会理論として大変優れているけれども、それを適用できる領域と、あまりうまく適用できない領域がある。うまく適用できない領域には無理にフェミニズムを当てはめて論じるのは止めませんか、ということでした。