例えば、小説や映画を論じるときに、フェミニズムで一刀両段するのは、物語の深みを縮減し、物語を味わう愉悦を殺ぐことになるので、ちょっと止めてもらえませんかと僕はお願いしたわけです。夏目漱石は男権主義的であるから読むに値しないとか、フィッツジェラルドの『グレートギャツビー』のギャツビーのデイジーに対する欲望はまったく女の内面を顧慮していない男性中心主義的なものなので、読むに値しないとか……。
でも、そのギャツビーの幼児性やエゴイズムを微細に描写しているのは作家自身なんですよ。そもそも性差別イデオロギー剥き出しの小説なんか「アメリカ文学のカノン」になりませんから、誰にも読まれない。古典として読み継がれるのはその作品がそんな単純なイデオロギーの宣布装置ではなくて、その時代の現実を深く、精密に描いているからなんです。
フェミニズム文学論・映画論のやり方はその前にマルクス主義者たちが、文学や映画を「階級意識の有無」で断罪したのとよく似ていました。
その少し前は、小説や映画についても「この作品には階級的視点が欠けている」とか「作者のプチブル的価値観がはしなくも露呈し」というようないいがかりが「批評」として通用していた。それにうんざりしていた僕としては「ジェンダー・ブラインドネス」とか言われると、「また、あの検閲的な読みが始まったのか」と思って、暗い気持ちになってしまったのです。
でも、その後、2000年代になると、フェミニストたちの中から、もっと静かな語り口でもいいんじゃないか、「男性から権力・財貨・威信を奪還する」という政治課題を掲げることは「権力や財貨や威信を持つことは端的によいことである」という父権制社会の価値観に同意署名していることにはならないのか、というような反省が語られるようになったので、ちょっとほっとしました。
大きな主語で一般論を語るより、個人として「これだけは確かだと信じられること」を誠実に実践すべきではないかという論調に変わっていった。この「大きな主語」から「小さな主語」へのシフトは70年代に左翼の運動で起きたことと同じだなと思いました。
多くの人が受け入れてくれる“ゆるい合意”から始めるべき
――言論における語り口のトレンドを俯瞰すると、実に興味深いですね。昨今世論を二分している「LGBT理解増進法」についてはどう思われますか。
内田 これも何度目かの、「大きな主語で一般論を語る」傾向の現れだと僕は思います。周期的に流行するんですよ、このタイプの語り口は。ある種の全能感を与えてくれるから。自説に反対する人間や、自説を理解できない人間を一刀両断できますから。