東大を目指す予備校生だったものの覚醒剤と出会い、ヤクザの道に進んだ末に逮捕。その後、一念発起して司法試験に挑み、弁護士になった諸橋仁智氏(46)。

 そんな彼に、成績優秀だった少年時代、予備校のトイレで覚醒剤を初体験した際の強烈な記憶、勉強よりも密売に精を出した浪人時代などについて、話を聞いた。(全3回の1回目/続きを読む

諸橋仁智氏

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小学生の頃から「東大に行きなよ」と言われていた

――まず、どんなご家庭で育ったのか気になります。ご実家は、なにか家業を営んでいたのでしょうか?

諸橋仁智(以下、諸橋) 福島県いわき市で製麺業をやってました。もともといわき市ではすごく大きい商家で、曽祖父が本家から離れた際に製麺業を始めて、3代ぐらい続いたのかな。

 両親と僕の3人家族。実家は僕の母の家で、父は婿養子でした。なので、母が商売を切り盛りして、父が主に僕の面倒を見てましたね。授業参観なんかは、父が来てました。

 ざっくり言うと、けっこうな金持ちでした。ほんと、何不自由なかったですね。家も、敷地のなかに工場があったぐらいだったからデカかったし。

――さらに小学校から成績優秀で、高校も進学校に入学と。地元では、ちょっと名士の子というか。

諸橋 そうですね。成績は優秀で、性格も明るくて。成績に関しては、小学生の頃から塾の先生に「東大に行きなよ」と言われてたし、自分でも「行く」と言ってました。

 だから地元の連中が、僕が弁護士になったと聞いても「やっぱりね」と特に驚かない感じでした。ただし、その空白期間を知ったら、めちゃくちゃ驚くと思いますけどね。

 

中学生のときに父ががんで亡くなって

――何不自由なく育つなか、中学生のときにお父様が亡くなる。

諸橋 たしか、喉頭がんだったと思います。がんが見つかって、3ヶ月か4ヶ月で亡くなりました。

――それほどショックを受けなかったそうですね。

諸橋 中学生だったからこそというか。若干反抗期だったし、いまで言うところの中二病みたいなもので「お父さん、がんだって」って話を聞かされても「ふーん。しょうがないじゃん、どうせ人は死ぬんだから」みたいな感覚で。実際、そんなことを言ってましたしね。

 なので、「お父さんが死んだ。つらいよ……」ってならなかったんですよ。とはいえ、後々で「ああ、あのときってやっぱりショックだったんだな」と思うことはありましたけどね。

――お母さんとの2人暮らしがイヤで、高校生の頃から夜遊びをするようになったとのことですが、家のなかが寂しくなったことに耐えられなかったのでしょうか。