「オルタナティブ・ファクト」(代替的事実)、「ポスト真実の政治」という言葉が世界を席巻する時代、私たちは自国の歴史とどう向き合うべきなのか? 新著『街場の成熟論』が話題の内田樹氏が語る、今こそ司馬遼太郎から得るべき学びとは。

朝鮮人虐殺は公文書で確定されている歴史的事実

――関東大震災から100年をむかえた本年、朝鮮人虐殺について松野官房長官が「政府内で事実関係を把握できる記録が見当たらない」と発表したことに衝撃を受けました。

内田 官房長官の発言は、小池都知事の追悼文送付拒否と並んで、「オルタナティブ・ファクトの時代」を典型的に象徴するものだと思います。

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 小池都知事は虐殺犠牲者を悼む式典への追悼文を2017年以降送っていませんが、その理由を問われて、「何が明白な事実かについては、歴史家がひもとくものだ」「様々な見方がある」という言い方をして、歴史に向き合うことの政治責任を放棄していますが、これは公人には許されないことだと思います。

 関東大震災での朝鮮人虐殺で「様々な見方」があるのは「正確な死者数」についてであって、朝鮮人虐殺の事実そのものの存否については「様々な見方」などありません。「朝鮮人虐殺があった」ということは、内閣府の専門調査会報告書や、当時の警察の記録も残っていて、公文書で確定されている歴史的事実です。これを「明白な事実ではない」とすることは公文書を「捏造」と言い立てるようなものです(そういうことをしてそのまま国会議員に居座っている人がいますが)。

歴史家が確定できるのは「蓋然性の高い事実」だけ

 それに何よりも、歴史家の仕事は「明白な事実」を確定することではありません。タイムマシンで過去に遡れない以上、そこで何があったのかを全員が認める客観的事実として提示することは歴史家にもできません。「私はその場にいて、それを見た」という人たちの証言にしても、断片的であることはまぬかれないし、記憶違いもあるだろうし、あるいは端的に嘘をついている場合もあります。ですから、歴史家が確定できるのは「明白な事実」ではなく、「蓋然性の高い事実」だけです。「そうであった可能性がきわめて高い過去の事実」について以上のことは歴史家も語ることはできません。それをあたかも歴史家は「明白な事実」を確定できるはずだが、それができていないという方向に話にずらしてゆくと、実は朝鮮人虐殺などなかったのかも知れない……という歴史修正主義に道を開くことになる。

関東大震災 ©時事通信社

 歴史家の仕事ではないどころか、誰にもできない仕事を歴史家の責任におしつけておいて、それができていない以上、歴史について語ることそれ自体を公人はすべきではないというこの奇怪なロジックは、歴史学に対する許し難い侮辱だと思います。