論理的に思考する能力があれば…
――「蓋然性の高い事実」の重みを軽んじる行為ですね。
内田 これは、All or nothingという乱暴な思考法の一つの症状だと思います。歴史学の仕事は「明白な歴史的事実」の確定ではなく、「蓋然性の高い歴史的事実」の確定です。さまざまな史料や証言に裏づけられているので、「真実である蓋然性が高いこと」と、何の根拠もないただの個人的妄想の間には歴然とした違いがあります。もちろん、それもまた「程度の差」です。でも、もし歴史学者に向かって「それって、あなた個人の感想でしょ」と言ってみて、はしゃいでいる人がいたとすれば、その人はおそらく「蓋然性」という概念を知らないのでしょう。この世界に「絶対に確実」と言えるようなことはほとんどありません。でも、「歴然たる程度の差」はあります。論理的に思考する能力があれば、僕たちはそれを見分けることができる。そのために論理的に思考する訓練をしているのです。もし世の中のことすべてが「個人の感想」にしか見えない人間がいたとしたら、それは端的にその人が「低能」だということを意味しています。
「オルタナティブ・ファクト(alternative facts)」は、2017年にアメリカ合衆国大統領顧問ケリーアン・コンウェイが、「ドナルド・トランプの就任式に史上最多の人が集まった」というホワイトハウス報道官の虚偽発言を擁護するために記者会見で発した言葉です。航空写真で比べたら、明らかにオバマ大統領の就任式の時の方が参会者が多かった。でも、別に人数を一人ずつカウントしたわけではないから、確定的なことは言えない。それを逆手にとって、コンウェイは「『オバマの時の方が参会者が多い』というふうに見えたのは、あなたの個人的感想ですよね」と質問した記者に切り返したのです。
これは小池都知事が「虐殺されたとされる朝鮮人の人数が確定していない」限り、「6000人殺されたという説」も「誰も殺されていないという説」もいずれもオルタナティブ・ファクトである、つまり「代替可能な説」であるというロジックによりかかって、現実から目を逸らしているのと同型的な詭弁です。
「オルタナティブ・ファクト」は「ポストモダンのなれの果て」
――政府の要職にある人が公然と「もう一つの事実だった」と言い放ったことに驚愕としました。
内田 「オルタナティブ・ファクト」については、アメリカの文芸評論家ミチコ・カクタニが「ポストモダンのなれの果て」だと述べています。これは傾聴すべき意見だと思います。
ポストモダニスムはキリスト教信仰やマルクス主義のような「大きな物語」を破棄しました。神羅万象を統べる摂理も、歴史を貫く鉄の法則性も存在しない。それは、西欧の人々が自分たちのローカルな「物語」を全人類に過剰適用したことに対する反省として出て来たものでした。おのれのものの見方の客観性を過大評価しないという知的節度は好ましいものです。