日本の官製の歴史は戊辰・西南の敗者たちを久しく「国賊」として遇してきましたけれど、司馬は坂本龍馬も大村益次郎も土方歳三も西郷隆盛も、等しく敬意と愛情をこめて描きました。のちに顕官に累進した人物も、戦場で横死した人物も等しく扱った。それはこの内戦で生まれた分断を癒して国民的和解の物語を立ち上げることが日本のために必須であると司馬が信じていたからだと思います。会津や庄内の人にも、長州や薩州の人にも、「わがこと」として読まれる物語を書こうとした。これは個人として果たされた国民的スケールの事業だったと思います。
マーク・トウェインが「アメリカ文学の父」と呼ばれる理由
――確かに、どちらか一方の側を擁護して書いたものではありませんね。
内田 司馬さんの業績はアメリカにおけるマーク・トウェインの業績に近いと思います。マーク・トウェインが「アメリカ文学の父」と呼ばれるのは、60万人もの死者を出した南北戦争の後に、国民が深く分断されていた時代に、『ハックルベリー・フィンの冒険』で国民的和解の物語を指し示したからだと僕は思います。
『ハックルベリー・フィンの冒険』は南北戦争前のミズリーの話で、南部的な価値観の中で暮らしている少年ハックルベリー・フィンが、逃亡奴隷のジムを助けてミシシッピ川を下ってゆく冒険譚です。ハックルベリー・フィンは自分が逃亡奴隷を助けるという違法行為を犯していることにずっと悩んでいます。自分がしているのは「してはいけないこと」なのだが、ジムは人として立派だから、彼がつかまってひどい目に遭わされるのは人情として受け入れがたい。法を犯していることの罪の意識と、ジムに対する敬意の間でハックルベリー・フィンは葛藤しています。
物語の中には南部のいろいろなタイプの人たちが次々と出てきます。ろくでもないやつもいるし、まっとうな人もいる。マーク・トウェイン自身は南部人ですし、南北戦争にも南軍兵士としてちょっとだけ参戦しています。でも、南部の風景と人々の実相をありのままに、愛情をこめて描いている。
『若草物語』も『アンクル・トムの小屋』も『風と共に去りぬ』も南北戦争について中立的ではありません。ですから、発表された時期には南北の両方に同じだけの読者を獲得することはできなかったと思います。でも、たぶん『ハックルベリー・フィン』は南北両方に等しく愛読者を得ることができた。これが書かれたのは1885年、南北戦争が終わって20年後ですが、物語レベルで国民的和解を達成したのは、これが最初だったと思います。だからこそ、エドガー・アラン・ポーでもなく、ジェイムズ・フェニモア・クーパーでもなく、ハーマン・メルヴィルでもなく、マーク・トウェインが「アメリカ文学の父」と呼ばれることになったのだと思います。