でも、ポストモダニスムはその先まで行ってしまった。あらゆる「大きな物語」は失効した。それゆえ、誰にも「自分だけが客観的に世界を見ており、他の人たちは主観的妄想を見ている」と主張する権利はない。ここまでは正しい。でも、そこから「客観的現実などというものはどこにも存在しない。だから、客観的現実のことなど忘れて、それぞれが自分の好きな物語のうちに安んじていればいい」という「オルタナティブ・ファクト論」まで暴走すると、これは自民族中心主義を批判して始まったポストモダニスムが一周回って、自民族中心主義の全肯定に帰着したことになります。
どうしてこんな倒錯が起きたかと言うと、それはいろいろな人がいろいろな仕方で世界を見ているが、その中には「かなり正確に見ている人」と「まるでお門違いな人」がいて、その差はしばしば決定的であるという「常識」がある時期から人類的規模で失われたからです。
どんな社会理論も、いくつかの社会的事象はうまく説明できるけれど、すべての出来事は説明できない。でも、「かなり広い範囲で事象を説明できる仮説」と「ぜんぜん適用できない仮説」の間には歴然たる差がある。それを「どれも全世界の出来事すべてを説明できるわけではないから、同じようなものである」と論じることはできない。どのような自然科学の理論をもってしても、宇宙の起源がどうなっているか、宇宙の外側がどうなっているかを説明し切ることはできない。でも、「宇宙の起源も宇宙の終焉も、宇宙の外側も説明できない以上、物理学の現在の理論は、『宇宙は亀と象の上に乗っている』という宇宙論と不正確さにおいて等価である」と言う人はさすがにいません。
歴史記述について司馬遼太郎から学んだことは大きかった
――大人としての知性はどうしたら身につきますか。
内田 もののわかった大人をメンターとして私淑することでしょう。僕の場合でしたら、鶴見俊輔、養老孟司、司馬遼太郎といった人たちの著作を読んで、成熟した大人というのは、こんなふうにものを考えるのかということを学びました。
特に歴史記述について司馬遼太郎から学んだことは大きかったと思います。司馬は歴史において何人も断罪しませんでした。善悪の基準を先に立てて、それを機械的にあてはめて人間を格付けするということを自制した。それよりは、名もなき青年たちが、どのように生きて、どのように死んだかを淡々と書いた。
何より司馬は戊辰戦争と西南戦争という日本人を二分した内戦の死者たちについて個人的な供養を行おうとしたのだと思います。この戦争ではたくさんの若者たちが死にましたけれど、彼らはその政治的立場にかかわりなく、日本のために誠実に生きたと司馬は考えました。ですから、敵味方に区別して、扱いを変えるということを司馬はしませんでした。