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「金融国会」で鍛えられた伊藤

 金融監督庁が発足した1998年、日本長期信用銀行(現・SBI新生銀行)が経営危機の真っただ中で、今まさに日本中が金融危機に陥ろうとしていた。同年8月、主税局総務課にいた伊藤は金融監督庁の監督総括課の課長補佐に異動した。「金融国会」と呼ばれた1998年夏の臨時国会を身をもって体験した世代は、もはや霞が関にあまり残っていない。

「朝から晩まで長銀問題が審議された。長官や長銀頭取が失言すれば、長銀だけでなくほかの大手行まで吹き飛びかねない。とてつもない緊張感だった」

 伊藤は後にこう振り返っているが、当時の金融当局に身を置いた全ての官僚に共通する危機感だったといえる。

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 この当時、後に国税庁長官になる住澤整(昭和63年、旧大蔵省)や、伊藤と同期で総合政策局長の油布志行中村修(現・預金保険機構総務部長)ら若手が入れ代わり立ち代わり、金融監督の最前線に投入された。

 危機を乗り切るためのなりふり構わない人事だったが、将来性のある課長補佐クラスに日本が直面する未曽有の事態を経験させた意味は大きかった。伊藤もこの時に粘り強さと耐久力、少々のことには動じないメンタルを培い、その後の官僚人生に生かしていくこととなる。

栗田は「金融官僚」の先駆けだった

 現長官の栗田は伊藤より1年遅れて、1999年7月に金融監督庁の長官官房総務課に異動した。入省以来、経済企画庁や調査企画課を経験し、経済分析に手腕を発揮しつつあった。京大法学部出身だったが、エコノミストとしての素質があったのだろう。緻密で丁寧な仕事ぶりは昔も今も変わらない。

 その後は一貫して金融庁でキャリアを積むが、その歩みに派手さはない。市場行政や国会対応を担当し、不良債権問題に苦しむ銀行の監督は経験していない。当時の上司が振り返る。

「仕事ぶりは手堅かった。面倒なテーマであっても、多少時間はかかるが、自分で仕上げる粘り強さと責任感があった」

経済分析を得意とする栗田長官 Ⓒ時事通信社

 2007年に渡辺喜美金融相の秘書官に起用された頃には、将来の幹部候補という見方が庁内でじわじわと広がっていた。

 転機となったのは2011年、企業開示課長の時だ。日本でも国際会計基準(IFRS)を導入するべきかどうか、公認会計士や企業の財務担当者の意見が真っ二つに割れ、収拾がつかない状況に陥った。そこで打開策を示したのが栗田だった。折衷案に当たる「日本型の国際基準」を国内で検討する方向を示したのだ。

 会計の世界に関心を持つ渡辺との信頼関係を生かし、公認会計士業界の後ろ盾である塩崎恭久元官房長官らも説き伏せた。

「政治的にやっかいな折衝でも知恵を出して乗り切る。大蔵官僚の一つのタイプだと思った」

 当時の栗田の働きぶりを知る元金融庁幹部はそう評する。ファイナンスや会計の知識を武器にした「金融官僚」の先駆けだった。