“鬼怒川温泉”を救えなかった蹉跌
一方、伊藤は金融危機を乗り切った後、2002年に財務省に戻っていた。ところが、またもや難局を任せられることになる。本流の主計局主査(課長補佐)としてキャリアを積もうとした矢先、産業再生機構への出向を命じられたのだ。「金融・産業一体の再生」が小泉政権の旗印になり、大手銀行が投げ出した貸出先を再生するための新組織だった。
この時、金融相に就任したのが竹中平蔵である。大手銀行を締め上げる急進的な改革を推し進めた結果、ダイエーなどの「有名銘柄」が銀行から見放されようとしていた。銀行が生き残りのために、不良債権となっている大手企業を切り捨てれば、失業者が急増し、地方経済が一段と空洞化しかねない状況だったが、竹中金融相は不良債権処理の現場より大手行を屈服させるのに夢中だった。
産業再生機構は、財務事務次官だった武藤敏郎(昭和41年、旧大蔵省)が水面下で動き、発足させた組織だ。表向きは経済産業省主導だが、舞台裏は財務省が仕切っていた。伊藤は、野村証券の元副社長で、機構の社長に起用された斉藤惇の秘書官役として送り込まれると、次第に頭角を現していく。斉藤の信頼を得ると、財務省との連絡役にとどまらず、斉藤の知恵袋として縦横無尽の働きを見せた。
だが、その過程では“挫折”も経験している。
伊藤ら再生機構の幹部が最も悩んだのは、竹中が破綻に追い込んだ足利銀行の融資先である鬼怒川周辺の温泉旅館・ホテル群の問題だった。自力で再生できる経営者や、引受先を見つけられる施設はごくわずかで、大半の旅館やホテルは廃業するしかなかった。
「都会と違って従業員の転職先が見つからなかった。精いっぱいやったが、多くの仲居さんや女性従業員が失業してしまった。シングルマザーも多かったが、手を差し伸べることができなかった。伊藤さんもずいぶん辛そうにしていました」
伊藤と一緒に仕事をした再生機構の幹部は、当時の心境をそう打ち明けた。
それでもダイエーやカネボウなどの支援を成功させた同機構は、予定を前倒しして解散。伊藤は2005年に財務省に戻ると、主税局で課長ポストを次々とこなしていった。消費税率10%への引き上げの道筋を考え抜いたほか、食料品などについて、マイナンバーカードを使って2%分を還付する負担軽減策は、デジタル庁が後に導入するポイント制度の原型になった。そして2015年、現事務次官の茶谷栄治(昭和61年、同)の後任として秘書課長に就任した。