25歳にして「世界のMAO」に——。
各国の名門オーケストラからオファーが殺到、いま“もっともチケットの取れないピアニスト”藤田真央さん。
初著作『指先から旅をする』では、20か国・100都市を熱狂させた2年間を自ら綴っている。その一部を抜粋し、紹介する。(全4回の1回目/続きを読む)
マーティンとの出逢い
帰国して春になり、わたしの世界デビューアルバム『モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集』のリリース日が、22年10月7日に決定しました。思い起こせばモーツァルトの楽曲を、これまでわたしは、ピアニスト人生の節目、節目で弾いてきました。
17年のクララ・ハスキル国際ピアノコンクールで決勝に進んだわたしが選んだのは《ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491》。クララ・ハスキル自身が、この曲のみごとな録音を残していたので、ぜひ取り組みたかったのです。他の2名のファイナリストは、それぞれショパンとシューマンの協奏曲を弾いていました。わたしの選んだ《第24番》は技術的な難易度はさほど高くないのでコンクール曲としてはどうかとも言われましたが、わたしはこれが弾きたいという意志を貫きました。曲選びも功を奏してか、わたしはそのコンクールで優勝することができました。そのとき演奏を聴いてくれていたのが、クララ・ハスキルコンクールの元審査委員長でもある音楽プロデューサー、マーティン・エングストロームでした。
演奏を終えて楽屋でピアノを弾きながら結果を待っていると、マーティンが声をかけてきました。そして、「僕はきみが一番だと思った。ぜひヴェルビエ音楽祭にアカデミー・スチューデントとして招待したい」と申し出てくれたのです。ヴェルビエ音楽祭とは、スイスのリゾート地ヴェルビエで夏に開催される、音楽家なら誰もが憧れるフェスティバルで、マーティンはその創設者なのです。まだ英語が得意ではなかった当時のわたしは、
「ヴェルビエ、イエス、サンキュー!」
としか返事ができなかったのですが、そのときの嬉しさは今でも覚えています。