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モーツァルトのピアノ・ソナタ全曲演奏への挑戦

 問題は、その時点でわたしが弾いたことのあるモーツァルトのピアノ・ソナタは、全18曲のうち3曲しかなかったこと。この話を受けるとしたら、1年のうちに15曲のソナタを仕上げなくてはならなくなります。だからといってわたしに、この夢のような提案を断るという選択肢はありませんでした。

「きみはこれまで何曲弾いたことがあるんだい?」と問うマーティンに、わたしは素知らぬ顔で「10曲です」と答えました。それから1年、必死で15曲のソナタと格闘し、ヴェルビエ音楽祭へ向かいました。

 わたしは当時20歳。吸収力のある年頃にみっちりとモーツァルトに打ち込めたのは、いま考えると非常によかった。モーツァルトの楽曲はどれもシンプルに見えて、じつは内側にいろんな特質が埋まっています。遠近法が効いているといいますか、じっくり解釈していくと、絶妙なバランスで異質な響きや展開に出逢えるのです。一曲ずつ丹念に吟味する作業を繰り返すうち、曲の魅力を発見し引き出す能力が前よりも身についたのでしょう。近視眼的にのめり込むのではなく、客観性をもって楽曲全体を捉えられるようになり、そのことは多分にわたしの音楽の幅を広げてくれました。以降わたしは、モーツァルト以外の新しい曲に臨むときであっても、以前よりずっと多様なアプローチのしかたを考えられるようになっていったのです。

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 記事の全文は、藤田真央さんの初著作『指先から旅をする』(文藝春秋)に収録されています。

指先から旅をする

指先から旅をする

藤田 真央

文藝春秋

2023年12月6日 発売