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《日本公開日決定!》アカデミー賞候補『オッペンハイマー』は“問題作”なのか? 東浩紀氏が解説

《日本公開日決定!》アカデミー賞候補『オッペンハイマー』は“問題作”なのか? 東浩紀氏が解説

アカデミー賞13部門ノミネート

2024/01/26
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第96回アカデミー賞のノミネーションが1月23日に発表され、クリストファー・ノーラン監督の「オッペンハイマー」が、作品賞や監督賞を含む最多13部門にノミネートされた。“ノーラン史上、最高傑作”とも称された本作は、ゴールデングローブ賞では、作品賞や監督賞ら最多5部門を獲得。“原爆の父”を描いた作品で、国内では「広島・長崎を描いていない」「被害者の視点がない」といった批判があり、2023年夏の時点では日本での公開が未定だった。だが、ついに日本公開日が3月29日に決定。映画ファンの間でも期待が高まっている。

昨年8月、一足先に米国で鑑賞したという批評家で作家の東浩紀氏が、この“問題作”について語った。(月刊「文藝春秋」2023年10月号より)

◆◆◆

 この(2023年)8月、僕は取材のために米ワシントンDCに8日間滞在して、その合間を縫って、現地でこの夏いちばんの話題作『オッペンハイマー』を観ました。残念ながら日本では公開未定とされていて、問題作と捉える向きもあるようです。クリストファー・ノーラン監督の作品はほとんど全て観ている僕としては、とても気になるところです。実際に本作を観て考えたことを、少しお話ししたいと思います。

東浩紀氏 ©文藝春秋

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「原爆の父」と呼ばれた米国の理論物理学者、ロバート・オッペンハイマーの生涯を描いた映画『オッペンハイマー』が7月21日、全米で公開された。監督は鬼才、クリストファー・ノーラン。主演はキリアン・マーフィー。マット・デイモン、ロバート・ダウニー・ジュニア、フローレンス・ピューら大物俳優が脇を固める。

 映画では第二次世界大戦末期、オッペンハイマーが原爆開発の「マンハッタン計画」を指揮した経緯や、ニューメキシコでの試作核弾頭の臨界実験「トリニティ」の様子などが描かれている。興行収入は全世界で5億ドル(約710億円)を突破。来年のアカデミー賞候補との呼び声も高い。

 だが、いまだ日本での公開は未定となっており(8月28日現在)、日本語字幕の付いた予告編すら公開されていない。「広島・長崎を描いていない」「被害者の視点がない」といった批判があり、それを配給会社が忖度したのでは、とも囁かれているが、本作はそれほどの“問題作”なのか。

これは“反戦・反核映画”

 まず『オッペンハイマー』はとてもいい作品でした。ノーラン監督作品の中でも素晴らしい出来だと思います。『インターステラー』や『インセプション』と同じくらい、心に響きました。

 まず印象的だったのは、音です。核爆発の衝撃を想起させる「ガタガタガタ」という不気味な振動音が要所要所で使われ、全体を支配している。音楽担当は前作の『テネット』と同じルドウィグ・ゴランソンという人らしいですが、個人的には、ハンス・ジマーが音楽を担当した『インセプション』に近い印象を抱きました。『インセプション』もそうでしたが、何度も繰り返される重低音が恐怖や心の揺らぎを表現していて、作品の主題を巧みに演出しています。

 あと、ディテールとして面白かったのは、当時オッペンハイマーの周囲に綺羅星の如く存在した、偉大な科学者たちが登場することです。アインシュタインやエンリコ・フェルミ、ボーアにハイゼンベルク。森を散歩しているアインシュタインにオッペンハイマーが相談に行く場面があります。アインシュタインの横に長身の男がいて、「彼とよく散歩しているんだよ」なんて台詞がある。じつはそこでたいへん有名な数学者が出てくる。正確な史実ではないのでしょうが、「ひょっとしたらこんなことがあったのかも」と知的好奇心がくすぐられる場面でした。

米国では7月に公開された ©時事通信社

 作品を取り巻く状況を考えたとき、「原爆の父」を主人公にした映画に対して警戒感を抱く人たちがいるのは理解できます。実際、本作は原爆の開発過程を詳しく描く一方で、被爆の悲惨さは台詞で言及されるのみです。問題意識に欠けるという批判はありえるかもしれない。

 ほか劇中では、オッペンハイマーの心象風景として一瞬だけ、被爆によって肌がケロイド状になった人が出てくるのですが、日本人の僕からすれば「原爆被害はこの程度のものじゃないぞ」という思いは当然あります。

 ただ、強調しておきたいのは『オッペンハイマー』という作品そのものは明確に“反戦・反核”だということです。オッペンハイマーを天才科学者として称賛しているわけでもなく、米国で根強い「日本の降伏を早め、多くの米兵の命を救った」という、原爆投下を正当化する価値観に寄り添う物語でもありません。

 “間違える科学者”

 ネタバレにならない程度にあらすじをお話しすると、まず舞台は第二次大戦前後のアメリカです。戦前と戦後を行ったり来たりして物語は進みます。

 ユダヤ系米国人であるオッペンハイマーはナチスの蛮行を止めなくてはいけないという思いから、原爆開発を目的とした「マンハッタン計画」に参加します。リーダーシップがあった彼は、ロスアラモス国立研究所の所長となって、ついに開発に成功する。けれど、その破壊力を理解していた彼は、広島と長崎への原爆攻撃を深く後悔するようになります。

 そして「原爆の父」として一時は栄光を手にしながらも、戦争終結後は考えを改め、核軍縮を呼び掛けて反戦活動に転じていく。水素爆弾の開発にも反対して、学術界での立場も危うくなっていきます。

「原爆の父」ロバート・オッペンハイマー ©時事通信社

 じつは彼は若い頃から左翼活動に親和的でもあり、弟や大学時代の恋人が共産党員でもありました。それゆえ米ソ冷戦へと時代が移行すると、共産党員やシンパを公職から追放する“赤狩り”に巻き込まれてしまいます。そして多くを失ってしまう。

 今回、ノーランの映画では珍しく性行為が描かれていることも、公開前に話題になっていました。共産党員の女性に惹かれ関係をもってしまう。しかもその関係は別の女性と結婚したあとも続く。その不倫関係は戦後の告発で掘り返されることになります。詳しくは言いませんが、オッペンハイマーはその女性との関係においても取返しのつかない失敗をしてしまいます。