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《日本公開日決定!》アカデミー賞候補『オッペンハイマー』は“問題作”なのか? 東浩紀氏が解説

《日本公開日決定!》アカデミー賞候補『オッペンハイマー』は“問題作”なのか? 東浩紀氏が解説

アカデミー賞13部門ノミネート

2024/01/26
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 つまり、この映画はオッペンハイマーという科学者を徹底して「間違う人間」として描いた作品だと言うことができます。彼は政治的にも性的にも何度も間違っている。それを訂正しようと苦闘している。原爆開発の必要性と原爆投下の残酷さに引き裂かれながら、時代に翻弄され様々な失敗を犯してしまう人間の物語になっている。原爆実験が成功し軍人が喜んでいる場面や大統領が投下目標について冗談を飛ばす場面もありますが、きちんと批判的に描かれています。オッペンハイマーは笑っていません。

 ではなぜ日本で公開されないのでしょうか。米国人が太平洋戦争を描いた映画はこれまでたくさんありました。名作とされるクリント・イーストウッドの『硫黄島からの手紙』もそうです。ベン・アフレック主演の『パール・ハーバー』という作品もありました。やはり原爆のテーマは特別なのでしょう。

 “バーベンハイマー”騒動

 加えてSNSでの「バーベンハイマー騒動」がとても悪い印象を与えました。『オッペンハイマー』は北米では、着せ替え人形を実写化したコメディ映画『バービー』と同時公開でした。それゆえ米国のネットでは、2つの作品の名前を組み合わせた「バーベンハイマー」という造語が生まれ、バービーとキノコ雲を組み合わせたファンアートが持てはやされ、拡散したのです。それが日本で不必要な反感を買い、状況を悪くしてしまった。

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 そういう状況の中で、日本の配給会社が公開に二の足を踏むことはよく理解できます。オッペンハイマーは加害側です。そんな彼を主人公にし被爆者の苦しみが描かれないとなれば、日本では反発は避けられないでしょう。けれどもそれはもったいないと思います。

 社会は複雑で、加害と被害ですべてが割り切れるわけではありません。誰しもが“被害者”と同時に“加害者”になる可能性を持っている。ある一面では“被害者”である人が、別の集団では“加害者”として間違いを犯してしまうことだってあります。

『オッペンハイマー』はまさにその難しさを描いています。オッペンハイマーはユダヤ系でナチスの暴力を止めるために原爆を開発した。でもそれは巨大な加害を引き起こしてしまった。ウクライナ戦争が起きて核抑止が話題になっているいま、これはまさに日本で観られるべき映画ではないでしょうか。

 SNSは単純な図式が勝つ世界です。そのSNS上でバーベンハイマー騒動は起き、映画への批判も起きました。けれども『オッペンハイマー』はもっと難しい問題を扱っています。人は基本的に間違える存在だということを忘れて、正義を振りかざすのは愚かなことです。

 もうひとつ問題があります。僕は広島・長崎への原爆投下は大量虐殺であり、正当化できるものではないと考えています。バーベンハイマー騒動が明らかにしたのは、残念ながらそれが国際的な常識になっていないということです。日本人は原爆投下を大量虐殺だと思っているけれど、アメリカ国民の大半はそうは考えていない。

 アメリカの観客の鈍感さに怒るのはわかりますが、一方で、日本人である私たちは世界に対してどれだけ原爆の悲惨さを訴えることができていたのかも、併せて省みるべきではないか。

 例えば、今年5月に行われた広島サミットでバイデン大統領は、被爆の惨状が展示されている原爆資料館の本館を訪れず、比較的穏当な内容と言われる東館だけの訪問となりました。滞在時間もG7首脳陣のなかで最も短かった。米国の国内事情への配慮だと言いますが、抗議してもいいのではないでしょうか。

 7年前のオバマ大統領の原爆資料館訪問も東館だけで、時間はバイデン大統領よりもさらに短く、滞在はたったの10分間でした。そのスピーチの内容も、「71年前のよく晴れた雲一つない朝、空から死が降ってきて世界は一変した」というじつに抽象的な内容でした。当たり前ですが、「空から死が降って」くるわけがない。米国が意思を持って原爆を投下したんです。それなのにマスコミは歓迎一色だった。今もアメリカでは原爆被害のまともな展示はできません。日本外交の拙さの結果だと思います。

 今回のサミットでは「広島ビジョン」が採択され、岸田首相が核の抑止力を認めたことへの批判が目立ちました。僕は核抑止による平和はリアリズムだと思います。だから支持してもいい。しかしそれと核使用の残酷さを世界に訴えていくことは両立します。

本記事の全文は月刊「文藝春秋」2023年10月号および、「文藝春秋 電子版」に掲載されています。東浩紀氏がデモクラシーの本場でみた「記憶の政治」や、アメリカの「訂正する力」、日本に必要なナショナル・アイデンティティを作る力についても語っています。

また、東氏が自らの米国取材の内容について、政治学者・御厨貴氏と語り合った番組「近現代史を訂正する力」を視聴することもできます。

文藝春秋

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問題作『オッペンハイマー』を観て来た
《日本公開日決定!》アカデミー賞候補『オッペンハイマー』は“問題作”なのか? 東浩紀氏が解説

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