1ページ目から読む
4/4ページ目

――橋本さんにとっては、映画も救いとなってきたはずですよね。コロナ禍に設立されたミニシアター・エイド基金への賛同コメントで、「私は昔、映画に命を助けてもらいました」と話していましたが、それはどういった意味ですか?

橋本 映画の内容に救われたというより、映画という存在そのものに救われてきたような気がします。自分は映画に恵まれたキャリアだったと思うんです。デビューが映画だったし、いろいろな現場をたくさん見せていただいて。

 でもその中で自分の至らない部分があらわになって、映画が好きなのに、映画に対してなにも返せないことが苦しくなっていったんです。返せないならもうやめようと一時期は思っていました。どこにも出ていきたくないなって。

ADVERTISEMENT

 ただそんなときでも、映画館に行けばとりあえず生きのびることができたんです。だからまず映画をたくさん観ようと思ったし、映画館でずぶずぶと映画を観ていた時期があったから、いまの自分があるんだなと。

 私の人格の大きな部分は、映画によって作られているんですよね。最近になってやっと映画に返せるようになってきたので、これからはもっともっと返せるようにと思っています。

「まだ認めてくれない気がして悔しい。もっとがんばろう」

――映画に返すというのは、観客に対してお返しするという感覚ですか?

橋本 映画そのものに対してですね。映画を撮っているときは、まだ観客のみなさんのことはほとんど考えられないです。どう観られるかとか、どう受け止められるかとか……それはちょっと考えるか。でも映画には人格があると思っているんですよね。ちゃんとやらないと映画に怒られるって。

 今回の『熱のあとに』では、山本英監督や山本晃久プロデューサーがすごく褒めてくださったんですけど、映画に認められないかぎり、きちんとできたという気持ちにはなれません。今回は映画がまだ認めてくれていない気がして、悔しい、もっとがんばろうというふうに思っています。

©2024 Nekojarashi/BittersEnd/Hitsukisha

――橋本さんの言う映画とは、抽象度の高い、映画を超えたところにある映画なんでしょうね。

橋本 はい、無形ですよね。でもそれって、言ってしまえば自分自身だと思うんです。神様と一緒で、結局は自分の中にあるものを他者化して、交流する感覚になっているだけなのかもなって。だからそれは自分の中の声なのかもしれません。