だからX(旧Twitter)でひとりごとをつぶやくとか、そういうのは苦手だろうなと思い、やってないです。
「言葉は使いようによって、救済にも、凶器にもなる」
――「私の読書日記」の橋本さんは、表現するというよりも、ひたすら思索しているなと思います。文章に思索の痕跡が正直につづられていて。
橋本 自分がいま本当になにを考えているか、ただただ吐露するみたいな感じですよね。自己顕示の時期ももちろんあったんです。でも自分がどんな人間かを誇示する時期は抜けました。いまは自分の考えが正しいのか、間違っているのかわからないけど、それを言葉にできる場所があってすごく助かっています。
普段、こういった取材や舞台挨拶の場では、自信のある言葉でないと話せないんです。でも「私の読書日記」では、この考えは正しいのかなと思いながら、その未完成さを未熟なまま言葉にしている。だから包み隠せない変遷が、それこそ丸裸になってしまってはいるんですけど、そんなふうにさらけ出せる場所があるのはありがたいです。私の精神安定剤みたいな場所なのかもしれません。
――橋本さんの言葉からは、這いつくばってでも考えを前へ進めるような、強い意志を感じます。
橋本 たしかにそうですね。現状維持をいっさい受け付けないというか。毎月何冊かの中から書く本を選ぶんですけど、現状維持になってしまう本のことは書けない気がするんです。読んで楽しい本はたくさんあるけど、知らないことに触れて、新しく変わっていく自分を書くほうが面白い。そうやって変化できるのが楽しいです。
――言葉を発信することには、その一方で誰かを傷つけたり、自分が傷ついてしまったりするリスクが伴います。その怖さや不安はありますか?
橋本 はい、使いようによっては、誰かにとって救済になる言葉も、誰かにとっての凶器になりえますよね。だとしたら傷つく人は最小限でいてほしいので、最近はなにを発信するかより、なにを発信しないかのほうが大事だと考えるようになりました。