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宝塚を目指したきっかけ

 真矢はきょう1月31日、60歳の誕生日を迎えた。生まれたのは広島で、中学時代は大阪・豊中市ですごした。その間、父親が航空業界に勤めていた関係で日本各地を転々とし、8回も引っ越しをしたという。真矢は中学卒業とともに難関である宝塚音楽学校を受験して合格したが、この時点では宝塚にほとんど興味はなかった。

 中学時代には「宝塚コドモアテネ」という宝塚歌劇団付属の日曜教室に入り、声楽やバレエなどを学んでいたとはいえ、熱心に通っていたわけではなかった。むしろ、豊中に引っ越してきて宝塚ファンになったのは母だった。真矢は最近出した著書で、宝塚を受験した動機には、母を喜ばせたいという気持ちがあったほか、そのころ両親の関係がぎくしゃくしており、自分が受けると言えば二人とも協力して冷静になってくれるかなと思ったからだと明かしている(『いつも心にケセラセラ』産業編集センター、2024年)。

©時事通信社

 それだけにまさか合格するとは思っていなかった。ただし、受験時の成績は、真矢と同じくのちにトップスターとなる黒木瞳や涼風真世を含む同期の39人中、下から3番目とギリギリであった。ここにいたっても宝塚の世界には興味が持てず、本人いわく“一人アンチ宝塚状態”だったという。それが2年目ぐらいに、当時のトップスターだった大地真央が、宝塚の伝統からははみ出したリアルな男役を演じているのを観て衝撃を受け、がぜん自分もトップになりたいと志を抱いた。

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劣等生だった青春時代

 とはいえ、宝塚音楽学校ではずっと劣等生で、卒業して歌劇団に入ってからも成績が悪く、なかなか役がつかなかった。面白くないので、もう辞めようかなと母に言うと、「このあいだ『初舞台を踏みました』ってハガキ刷ったばっかりなのに、印刷屋に恥ずかしいわ」と返され、思い留まったという(『週刊文春』前掲号)。そのかいあって翌年、『メイフラワー』の新人公演(本公演と同じ演目を入団7年目以下の団員が演じる公演)で初めて主役に抜擢された。入団3年目の1983年のことである。

 もっとも、真矢は、自分の強みは“アンチ宝塚”として入団したことだと思っていたため、上層部や上級生に食ってかかることもよくあった。とくに先輩たちがことあるごとに「昔は」「私たちが若いときは」と言うのには反発したという。上下関係が厳しい宝塚にあって、そんな彼女は異端児だった。もっとも先輩たちは、真矢は真っ正直なだけで、本当は不器用で陰では努力しているとわかると、逆に引っ張ってくれるようになったという。

 なかでも星組から花組に移ってきたトップスターの大浦みずきにはかわいがってもらい、大浦が1991年に退団するときには、真矢はトップになるという目標も忘れて「一緒に辞めます!」と言ってしまったほどであった。これに対し大浦は「あなたはいなきゃダメだ。あなたみたいな変わった個性で宝塚を見る人がいないと、宝塚は変わらない。温故知新というように、歴史も大切にしつつ、新しいことをしなさい」との言葉を贈った(『週刊文春』前掲号)。のちに「宝塚の革命児」と呼ばれる真矢の個性を、先輩はしっかり見抜いていたのだ。この言葉を受けて、真矢はトップになるまでは自分の手法は取らないでおこうと決める。