米澤の取材が決まる前、企画の下調べをするために自宅を訪ねたスタッフの話を思い出す。本棚には、「成功するための10の方法」的なたくさんのマニュアル本やメンタルトレーニング関連の書籍が並んでいたという。そのスタッフによると、「彼にはどこか自分の言葉で話している印象がない。誰かの受け売りや実体験のない理屈ばかりを話している気がする。だから彼を追いかけても、ドキュメンタリーとしては難しいのではないか」。
そんな報告があったのにもかかわらず、どういうわけか米澤の企画が通り、しかも担当するのは、最初に接触したディレクターではなく、僕になってしまったという経緯なのだ……。
米澤が「殴らないで勝つ方法、ありますかね?」と呟き…
まあ、とりあえずマニュアル本から借りてきた言葉を並べられても面白くはない。インタビューという形式で、この人物を描くのはなかなか困難だと思っていた時、米澤がぼそっと呟いた。
「殴らないで勝つ方法、ありますかね?」
はじめは何を言っているのか、わからなかった。聞き直すと、「殴らないで勝てればいいなあって時々思います」。
その日は取材初日で、ディレクターとしては、米澤にこれからどんな物語が始まるのか、そもそも物語になるのか、期待と不安でぐるぐるになっている中、そんな質問を受け、混乱した。相手の真意を摑みかねていると、「冗談ですよ、冗談です。流してください」と米澤は笑う。こちらはキャラクターがわからないから、笑えない。
「殴るの好きじゃないんですか?」
「好きか嫌いかって言われたら、好きではないです。でも、そんなこと言ってたら駄目ですから、やりますけど」また、笑った。
これが、はじめて聞こえた《息づかい》のような気がした。
37歳になるまでの9ヶ月間で最低3回は勝ち抜かないといけない
殴るのが嫌いな男が、どうしてボクシングをやっているのか。ドキュメンタリーとして、この切り口はあり得るかもしれない。雇われディレクターの僕は藁にもすがる思いで、そこを聞いてみたいと、すごいスピードで歩く米澤に必死についていく。
米澤がこれからチャンピオンになるためには、まず一度、同じB級のボクサーに勝ってA級に昇格し、さらには日本ランカーにも勝って、日本ランキング15位以内に入り、そこではじめてタイトルマッチ挑戦権を得て、最後にチャンピオンを倒さねばならない。しかもそれは、37歳になるまでの9ヶ月の間にだ。