対戦高校は地元宮崎の宮崎第一高校。その試合は7人制の団体戦で3勝3敗の5分のまま、米澤に出番が回ってきた。体重の軽い順に試合をするというのがレスリングのルールで、最重量階級の米澤が最後なのだ。
《ここで倒せば、試合に勝つ》そんな大一番だった。相手は100キロ超の大巨漢。74キロの米澤になど簡単に勝てると地元応援団は大盛り上がりだった。ところが米澤は予想を裏切る大奮闘を見せ、バックをとってひっくり返し、見事フォール勝ちを収める。そうして3年生のひとりが信州大学に推薦で入ることができた。
レスリング部の先輩・後輩との突然の別れ
しかし、入学の翌年、1994年6月27日。その先輩はオウム真理教が起こした松本サリン事件の最も若い犠牲者になってしまった。アパートの彼の部屋には、飲みかけの牛乳があった。夜中、牛乳を飲もうとしてサリンを吸い込み、19歳で突然、人生が断ち切られてしまった。
「10月か11月頃、どうしてか忘れちゃったんですけど、僕が道場で1人ぼんやりしてた時、その先輩が入ってきて『よねのおかげで、大学行けたよ』ってすごく感謝されたんすよ。今でも覚えてますもん、先輩の笑顔。別に自分を責めるとかそういうわけではないですけど、あの時、僕が勝たなかったら、先輩は死ななかったんだなあって、思うことがあります」
さらに5ヶ月後、再びレスリング部に死の影が忍びよる。米澤が青山学院大学にスポーツ推薦の試験を受けに行っている間、2年生の後輩が校舎内で飛び降り自殺をしてしまう。夏の国体で負けた時、遠征先のホテルで同室だった米澤が「2年なんて練習。また来年頑張ればいいんだよ」と励ました後輩だった。当時、レスリング部員はたった10人。結びつきは強いはずだった。遺書はなく、自殺の原因は今でもわからない。しかし米澤は自分の言葉を今でも悔いている。
強烈に刷り込まれた“いつ訪れるかわからない死”
「なぜ、軽々しくそんな言葉をかけたんだろうって思いますよ。どうして気持ちをわかってやれなかったのか……」
僕は突然、こんな話をされて動揺した。この2つの不幸な死は、確かに米澤となにがしかの関係はあるのかもしれない。けれど、もう20年近く経っているし、そこまで引きずる必要はないじゃないかと言ってやりたかったが、彼の思い詰めた表情に僕のフォローなど通じそうもなかった。
夜道を2人で歩きながら、何を話せばよいのかわからなかった。
ただ、このミドル級のプロボクサーには、《いつ訪れるかわからない死》が強烈に刷り込まれていて、それゆえにこの挑戦を始めたことは確かなのだと思った。
「じゃあ、また明日」
夜11時15分、5キロのウォークを終え、米澤と別れた。気温は零度近いというのに僕は汗だくになっていた。