なにも決めずに辞めたので、辞めてからですよ。阪本さんの助監督になりたくて、つながりのある方に相談したら、その方から脚本をつけて出せ、と。だから脚本をお渡しして、演出部に入りたいとお願いしたんですけど、当然演出部のメンバーは固まっているし、30歳を過ぎた人間の面倒までは見切れない。そうばっさり、でも優しく断られました。「えー!」って(笑)。見通しが甘すぎたんですね。
泣きながら飲んだくれていた三島を変えた“二人の存在”
――ドキュメンタリーが第一ではなかったとはいえ、NHKでも映像作品は撮れていたはずです。ドラマや映画を撮るチャンスだってあったかもしれませんよね。
三島 辞める前に相談した方からも、NHKを辞めずに撮る方法はある、いま持っているカードを生かすのが頭のいい選択だと説得されました。でも映画を作っている人たちの中に入って、同じ言葉で話したいと思ったんですね。だったら辞めるしかないなと。
しばらくのあいだはショックで、新宿三丁目の飲み屋で映画を撮りたい、なのに助監督すらできないと言って、泣きながら飲んだくれていました。すると隣の隣くらいの席に『戦国自衛隊』(1979)の斎藤光正監督と、『ジェームス山の李蘭』(1992)の猪崎宣昭監督がいらっしゃって、話しかけてくださったんです。
私が助監督の勉強をしたいと話したら、明日、中野のファミリーレストランに来なさいと。いまもはっきり覚えてますけど、中野のサンデーサンです。そこに呼ばれ、1冊の台本を渡されて、自分ならどういう台本に変えるか、何時間かかってもいいからいま目の前でやれと言われたんです。
鉛筆と消しゴムを渡され、最初から書き直して、最後のページを閉じたときは翌朝でした。「できたか、じゃあ飯食え」と言われて、私が食べているあいだ、ふたりは時間をかけて台本を読んでくれました。1時間くらいたったあとですね、「明日から現場に来い」と言われたのは。
それで主に東映京都撮影所で映画の勉強をさせてもらうことになったんです。本当に拾われたかたちですよね。おふたりがいなかったら、ずっと酔っぱらって、くだを巻きつづけていたと思います。
撮影 鈴木七絵/文藝春秋