一月の声に歓びを刻め』製作のために、生まれ故郷の大阪・堂島でかつての記憶を辿った三島有紀子。NHKを退職し映画業界に飛び込んだ若き日々、そして47年の時を超えて苦い思い出と向き合い、最新作を撮った決意を明かす。(全2回の後編/前編を読む)

「白いシャツを着て、泥んこになりながら頑張っていました(笑)」

――NHKから映画界に移って、現場はどう見えましたか?

三島 結果的に東映京都の人たちは映画の本数が少ない時期で、単発のドラマ撮影が多かったですけど、みんな映画のスタッフ。撮り方も映画の撮り方で、ワンキャメで時間をかけて芝居を作る現場は、それまでとまったく違いました。

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©鈴木七絵/文藝春秋

「テレビの場合はまず放送枠があって、そこを埋めなければならない。でも映画は、別になくても構わない。それでも作る理由は、これを作りたいという熱意しかない」と語ってくれた方がいて、なるほどと思いました。

 その映画を、そのワンカットをよりよくするために、全員がその場にいる世界。それが東映京都でした。どれだけ大変な現場だったかをみんな嬉々として語るんですよ。京都には8車線の道路なんてなかったのに、「深作(欣二)さんのときは8車線の道路すべてで車止めしたんや。封鎖や」とか、そういう話が楽しくてたまらない。

 私はわざと白いシャツを着て、泥んこになりながら、雨降らしのスタンドインをやったりしていました。最初は目立たないように黒い服を着ていたんです。そうしたら「黒でがんばっててもわからん。白でやって泥んこになると、めっちゃがんばってるふうになんねん」と言われて、なるほど、そうだったのかと。鵜呑みにして、白いシャツでがんばっていました(笑)。

――とはいえ、映画の労働環境は劣悪でもありましたよね?

三島 でも私が20代だったころのテレビも相当でしたよ。話していいのかわかりませんけど(笑)。むしろ東映京都は労働組合のしっかりしたところで、日曜日はしっかり休むんです。撮影が終わってから、最低8時間は空けないと次の撮影を始められないとか、そういう意味ではいい環境で助監督をやらせていただけたなと思います。

「ラッキーでした。出会いが良かったんだろうなと思います」

――2009年に監督デビューして以降は、コンスタントに作品を撮りつづけています。順調なキャリアでしたか?