富山城は金沢の前田家の分家が城主を務めた城で、江戸時代に描かれた複数の絵図にはいずれも天守が描かれていない。『万治四年(1661)築城許可書』には天守の建設計画が記され、建てることが検討された形跡はあるが、結局、石垣による天守台も築かれなかったことが発掘調査でも確認されている。
市街地のほぼすべてが焦土と化した富山に、復興のシンボルが必要だったのは理解できる。しかし、この天守は近代都市のシンボルにすぎず、歴史や伝統を尊重しようという姿勢に裏づけられていない。
そんな「天守」が平成16年(2004)、「地域の景観の核」として国の登録有形文化財に登録されてしまったのは、悪い冗談としか思えない。
間違ったイメージを与えている
平戸城(長崎県平戸市)の本丸には三重四階の天守が建ち、最上階からは平戸湾の絶景を見渡せる。だが、昭37年(1962)に建てられたこの天守は、不思議なことに平面の半分は石垣に載らず、地面に直接建っている。二重櫓の跡に無理に建てているからで、本丸に天守台はなかったのである。
平戸城の前身である日之嶽(ひのたけ)城を築いたのは松浦鎮信(しげのぶ)だが、完成間際の慶長18年(1613)に焼失した。豊臣家との関係性を徳川幕府に疑われた鎮信が、嫌疑を晴らすためにみずから火をつけたともいわれる。その後、元禄16年(1703)になって再築城が認められ、享保3年(1718)に完工したが、天守は建てられなかった。
現在の天守は戦後の天守復興ブームにあやかり、観光の拠点とするために建てられた。海からの景観や天守からの眺望が重視されたようだが、訪れた観光客に平戸城の誤ったイメージをあたえている。
なぜか別の城をモデルに再建
昭和39年(1964)、中津城(大分県中津市)の本丸に完成した鉄筋コンクリート造の五重五階の天守は、和歌山城や熊本城の再建天守を手がけた藤岡通夫氏が設計した。だから、史実の天守かと思ってしまうが、この城も江戸初期を除いては天守が建った形跡がない。