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ところが、昭和40年(1965)に三重四階の天守が、石垣の天守台上に建てられた。岡崎城をモデルにしたそうだが、柱と窓の関係など、木造建築のセオリーもまったく考慮されていない。

ふるさと創生基金で建てられたお城

織田信長が美濃(岐阜県南部)に侵攻するにあたり、まだ木下藤吉郎と呼ばれていた豊臣秀吉が永禄9年(1566)に、わずか3日半で築いたとされる墨俣城(岐阜県大垣市)。その逸話が記されているのは、江戸時代初期にまとめられた『武功夜話』が中心で、『信長公記』ほか同時代の史料には記述がないため、後世の創作だとする見解も少なくない。

だが、秀吉の逸話が史実であろうとなかろうと、墨俣城が土塁や空堀で構成され、木柵などで囲って簡易な建造物を配置しただけであったことはまちがいない。

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ところが、そこに平成3年(1991)、四重五階で最上階の屋根に金色の鯱をいただく白亜の天守が建ったのである。外観は大垣城を模したそうだが、大垣城の外観は江戸時代初期に整備されたもので、時代がまったく異なる。

天守の出現以前に廃城になった土の城の跡に、石垣上にそびえる高層の天守が建てられた例は、昭和42年(1967)に完成した亥鼻(いのはな)城(通称・千葉城、千葉市中央区)など、ほかにも例がある。

多くの人に歴史を誤解させる

だが、墨俣城の天守の場合、きっかけが特異だった。竹下登内閣の発案で昭和63年(1988)から、国が地域振興を旗頭にして各市区町村にばら撒いた「ふるさと創生基金」なのである。

その1億円をもとに総工費7億円で建てられたのがこの天守だ。内部は歴史資料館として利用されているので、どこかの自治体がつくった純金のこけしやカツオよりはマシだろうか。

しかし、多くの人に歴史を誤解させることを考えれば、正負の価値が相殺されて、こけしやカツオと変わらない気もする。

城を訪れる際には、天守が現存しているのか、復元なのか、復興なのか、復興の場合、史実を反映しているのか、天守がない城に建った天守ではないのか、事前に調べることをお勧めしたい。

脳内で天守の姿を変えたり、消したりしないと、歴史的な景色を誤解しかねないのが、日本のお寒い実情なのである。

香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。