慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、豊前(福岡県東部と大分県北東部)に入封した細川忠興が天守を建てた形跡はある。元和5年(1619)、忠興が息子の忠利に宛てた手紙には、中津城天守を約束どおりに(明石城を築城中の)小笠原忠政に渡すように、という指示が記されている。
だが、明石城に天守は建てられず、中津城天守のその後についての記録がないから、どうなったのか不明だが、その2年後には天守がないことが確認され、以後、絵図等にも天守は描かれていない。
それなのに旧藩主の奥平家が主導し、観光のシンボルとして天守が建てられた。二重櫓が建っていた石垣に石を積み増して天守台とし、古写真が残る萩城(山口県萩市)天守をモデルに建てたのである。
石垣がない土の城に石垣上の天守が
唐津城(佐賀県唐津市)は豊臣系大名の寺沢広高が、慶長7年(1602)から本格的に築城した。その際、天守台の石垣は築かれたが、すでに寛永4年(1627)の時点で「幕府隠密探索書」に、天守台はあるが建物はない旨が書かれている。
ところが現在、その天守台には五重五階の天守が建つ。昭和41年(1966)、例によって文化観光施設として建てられたもので、天守の記録がないので、秀吉が朝鮮出兵の基地として築いた肥前名護屋城(唐津市)をモデルに設計された。ちょうど昭和43年に、名護屋城と城下を描いた『肥前名護屋城図屏風』が発見されたばかりだったのだ。
平成20年(2008)から令和3年(2021)、傷んだ石垣の整備にともなって発掘調査が行われ、本丸の各所から古い石垣が見つかり、豊臣政権下の城に特徴的な金箔瓦も発見された。このため寺沢広高の築城以前に、先立つ城郭が築かれ、その時点では天守が建っていた可能性も否定できない。だが、そうであったとしても、いまの天守はそれとなんら縁がない。
そういう天守は九州に多いが北にもある。横手城(秋田県横手市)は、関ヶ原合戦後は最上氏、続いて佐竹氏の所有となり、寛文12年(1672)に佐竹氏の縁戚の戸村義連が入城すると、明治まで戸村氏が城主を務めた。その間、天守が建ったことはなく、江戸時代をとおして石垣がない土の城だった。