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 周囲から孤立した地域の中では、自然発生的に地域住民が協力し合い、山や海の自然とも向き合いながら工夫をこらして生活していた。

 さらに、詳細な記録を残していた。それができた一因は、この地域に防災士が3人もいたことだ。

「その日、何をしたのかというのを全部記録しました。救助の人が来てくれるようになってからは、どんな人がどのルートで村に入ってきて、何をしてくれたのかといったことを細かく記録していきました。どこのルートが使えるかという情報は大事ですから」

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女子トイレは便座ヒーターとウォシュレットだった

 孤立した珠洲市馬緤町の一角に陸上自衛隊員7人がやってきたのは地震から2日後の1月3日だった。しかしこの時点ではまだ自衛隊は人命救助優先で活動しており、道路の復旧や物資搬送は始まっていなかった。

「自衛隊が徒歩で来てくれたんです。それで通行可能な道路や、どこまで行けば携帯電話が通じるのかといった情報を集め始めました。自分たちでも、街へ抜けられるルートを徒歩や車で確認していました。その中に1本少し手を加えれば車で通れそうな道があり、これで孤立を解消できるかもしれないと思ったんです」

「発電機で明かりはつけていても、暖房がないので寒くて体調を崩す人が…」

 その後、避難者3人が12kmほどの道を徒歩で市役所の災害対策本部へ向かい、市長と副市長に面会。避難している人たちが無事であることを伝え、避難者名簿を提出した。また、市から衛星携帯電話を借り、連絡手段を確保することができた。さらに、吉国さんたちが伝えた道の情報をもとにボランティアも動員され、復旧に向けて急速に事態が動き出した。

ボランティアによって、お風呂には薪ストーブが設置された

 それでも、やはり避難生活が続けば人々への負担は大きかった。

「発電機で明かりだけはつけていても、暖房があるわけじゃないのでどうしても寒いんです。そうすると、体調を崩す人がちらほら出始めました。そういう人たちを町から脱出させるためには、最終的には自衛隊の協力を得る必要がありました。山を越える道は当時は一般車両の通行が禁止されていたので、自衛隊の協力を得て特殊車両で運んでもらう必要があったんです。一般車両が通れる道ができてからは、私が介護事業の会社で使っていた送迎車両を使って、町民を金沢まで脱出させたりもしました」

 中には介護を必要とする住民もいたが、吉国さんの経営する介護施設を開放したという。

「珠洲市内は水も出ないし、電気もずっと来ませんでした。それで、私の会社がたまたま金沢市内に介護施設を持っていたので、そこへ移送してもらいました。すぐいっぱいになってしまったのですが、協力してくれそうな仲間に頼んで受け入れてもらったり。本当に町や仕事の人のつながりを感じましたね」