能登半島地震では、崖崩れや道路の崩落による寸断によって集落の孤立が相次いだ。

 1月9日の段階でも輪島市や珠洲市、能登町で約3100人が孤立状態だった。しかしその後道路の復旧なども進み、1.5次避難や2次避難をしている。ただ、孤立地域だった地区では、いまだに避難生活を送っている人たちがいる。

避難所の責任者の吉国国彦さん

 能登半島の北側、先端に近い珠洲市馬緤町も孤立期間を体験した地域の1つだ。馬緤町では、市が運営する「自然休養村センター」、通称「センター」に住民が集まり、自然発生的に避難所のようになっていたという。

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 市内の中心部側から馬緤町に行くには人がすれ違えないほど細い山道を通る必要があり、筆者が訪れた2月2日時点でも、有名な「ゴジラ岩」からほど近い場所が土砂崩れで寸断されていた。

 その時点で「センター」で避難生活を送っていたのは32人、そのうち11人がここで寝泊まりしていた。避難所の責任者の吉国国彦さん(59)に、孤立期間に馬緤町で何が起きたかを尋ねた。

「山水を引いて、お祭り用の発電機で自給自足」

「地震の直後は町のほとんどの家の水道が使えず断水状態になりました。そこで『センター』に山水を引いて、みんなで使えるようにしたんです。それで徐々に地域の人たちが200人ほど集まってきて、助け合いながら生活していました。電気は最近まで通じていなかったのですが、それまでは地域のお祭りで使っていた発電機を運用して最低限の生活を維持することができました。そういう経緯だったので『センター』はもともと市の指定避難所ではなかったのですが、後から指定していただきました」

 実は、地震当日は携帯電話での通話も通信も可能だったという。しかし翌日の朝には基地局のバッテリーが切れ、通信ができなくなった。そんな過酷な状況でも、住民たちは「センター」に食材を持ち寄り、山から引いた水を利用して炊き出しを開始した。

避難所まで引いた山の水

「お祭り用の発電機で『センター』の館内に明かりをつけて、各家庭にあった食材を合わせて地域の200人分くらいの食事をセントラルキッチンで作っていました。海岸線では隆起した岩場にサザエやアワビが上がっていて、潜る必要もなく歩いて採ることができたので、食材の足しにしたりもしました。自給自足ですね。作った食事は『センター』に集まれる人は来てもらい、それ以外は各家庭に配布しました。『センター』が地域の拠点になったんです」