『錠剤F』(井上荒野 著)集英社

 ほぼ全話にセックスが出てくる。

 性描写が豊富でポルノチックという意味ではないし、セックスがテーマというわけでもない。人の心の繊細な機微を描いた短編集なのだが、筋書上、書いても書かなくてもいい性生活について、ほぼ記してある。「セックスした」と。官能的にというより事務的な生物の観察記録のように。

 恋人や夫婦の身の上話をする際でも、セックスレスなら必要上「言う」が、問題なくセックスしてる場合、省くものではないか?

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 そのことは、読者に対して戸惑いと下世話な期待の両方を抱かせる効果をあげている。全10篇の短編はどれも地味な内容なのに、釘付けになる。

 主人公たちは全員がすこぶる快活でない。全員が人生に倦み、あるいは屈託している。ある者はインチキの浄水器を老婆に売りつけようとし、ある保育士は体だけ目当ての保護者に顔を隠された状態で抱かれる。牧場に旅行するカップルも緩慢な別れ話の渦中にある。

 9話目で主人公がうどんを頼むが「それがテーブルの上に置かれると、私は、食欲がまったくないことに」気付くのは頼んだときから読めた。美味しそうにごはんを食べたり、快晴の青空に鼻歌が口をつくなんて瞬間は彼らには皆無。

 主人公たちはそのように負の気分にチューニングされていて、しかし彼らを取り巻く作中の他者たちはというと、これがもっと不可解なのだ。主人公たちの気配は、この世の「他者たち」がもたらす不可解さを読者に精確に輪郭づけるために濁らせたレンズのようなものかもしれない。

 浄水器を売られる老婆は逆に不思議な質問を放つ。食堂の店先でおすすめを記載したホワイトボードはなぜか消されている(この話はセックスが出てこないが、大きな女性器柄の板が登場する)。

 失踪した女の名前を馬に名付けていた牧場主が、その名をただ呼ぶ場面は圧巻だ。たった三字の呼びかけで、男の長年の狂気じみた思いの蓄積を一度に伝達してみせる。

 謎の錠剤を売る男のような、いかにも不穏な他者も描く一方で、本当になにげなく悪意もない他者が刺してくる、小さな針のごとき感触が本当にうまい。

 田舎在住の猫動画で人気のインスタグラマーに、夫の還暦祝いの写真を撮らせてもらいに行った女が「3000円から」できますよと料金を快活に請求される瞬間の、ああここに「他者」が蠢いているとたしかに戦慄させる感じ。

 それを感じ続ける読書には、凄惨なホラー映画を一つみるのとは別の、もっと持ち重りする刺激がある。

 露骨な転落や、狂おしいほどの破滅といったドラマを与えてもらえない主人公たちの無言ぶりが切ない、真に我々の日常に寄り添った小説集である。

いのうえあれの/1961年東京都生まれ。成蹊大学文学部卒。89年「わたしのヌレエフ」でフェミナ賞を受賞。2004年『潤一』で島清恋愛文学賞、08年『切羽へ』で直木賞、16年『赤へ』で柴田錬三郎賞、18年『その話は今日はやめておきましょう』で織田作之助賞を受賞。著書多数。
 

ながしまゆう/1972年生まれ。2016年『三の隣は五号室』で谷崎賞受賞。近刊に『トゥデイズ』(講談社刊)。