それに比べると、池田大作の葬送は、ずいぶん淡泊なものだったと言わざるをえない。何しろその葬儀は近親者のみで、“ひっそり”と言ってもいい形で行われ、一般会員層も含め、世間の多くが池田の死を知ったとき、その遺体はすでに火葬されていた。
創価学会としての池田の葬儀「創価学会葬」は2023年11月23日、東京都豊島区の創価学会・東京戸田記念講堂で執り行われたが、直接の参列が許されたのは幹部層のみで、多くの会員は、それぞれの地区の会館で中継映像を見る形となった。1958年4月8日に行われた戸田城聖の告別式には12万人が、同20日に行われた創価学会葬には25万人が参列したというのだから、単に規模という面から見て、池田の葬送は戸田のものより小さかった印象が強い。また、池田の創価学会葬について報じた2023年11月24日付の『聖教新聞』によれば、会場の祭壇には「池田先生の遺影」が映されていたとあるだけで、遺骨がその場にあったという記述もない。
最晩年の暮らしは?
2023年11月15日に、池田大作という一人の人間が、その生涯を閉じたことは事実である。しかし、その葬送において、池田大作という人物の“生身”は、ほとんど意識されることはなかった。最晩年はどういう暮らしをしていたのか、具体的にどういう状況で亡くなったのか、火葬に至るまでの経緯はどのようなものだったのか……そのような細かい情報は、2024年1月現在、ほとんど明らかになっていない。もちろん今後、時間が経つにつれて、創価学会として徐々にそうした逸話を公開し、新たな池田の伝説がつむがれていく可能性は大いにあろう。しかし、“死に様”を、その信仰のあり方からも重視する宗教団体のカリスマの死にしては、何かとてもあっさりとしたものを感じざるをえない。それが池田の訃報、および葬送についての情報に接しながら、筆者が持った偽らざる感想だった。
ただ、それも仕方なかったのかもしれない。何しろ池田は死に至るまでの十数年、どのような心身の状態にあり、どこで何をしているのか、そのような具体的情報がほとんど存在していなかったからだ。
事実上の“引退宣言”
2010年6月3日のことである。この日行われた創価学会の本部幹部会(創価学会の最高幹部たちが集まって行う会合)において、いつもなら顔を出す池田の欠席が伝えられ、創価学会会長の原田稔が「昨夜、本日の本部幹部会について、池田先生から指導がありました」と切り出し、池田からのメッセージであるという、こんな文書を読み上げた。