創価学会に入会しないと、あなたは不幸になる、おかしな病気にかかる、ロクな死に方をしない……。こういったことは、創価学会の折伏の現場で実によく使われたフレーズだった。となると、その創価学会のトップだった戸田城聖が、“おかしな死に方”をするはずはない。だからこそ、戸田の遺体が死後1週間にわたって腐敗しなかったなどという、科学的にはにわかに受け入れがたい話も、「偉大な戸田先生の伝説」として信じられてきたのだろう。そうした歴史的背景のせいか、創価学会の、特に古参会員になると、ある人が亡くなった時に「死因は何だったのか」「死相はどのような感じだったのか」などといったことについて、割と気にする人もいる。
あっさりとしたカリスマの死
さて、その戸田の弟子で1960年から創価学会第3代会長を務め、1979年からは同会名誉会長の座にあった池田大作は、2023年11月15日に、95歳で死去した。
しかし筆者が本書を執筆している2024年1月現在において、池田がその最晩年、どのような生活を送っていたのか、特にその死去前後の様子がどのようなものだったのかについて、『聖教新聞』をはじめとする創価学会の関係機関紙類は、特に詳しく報じていない。死因についても、「15日夜半、老衰のため、東京・新宿区内の居宅で霊山へ旅立たれた」(『聖教新聞』11月19日付)とされており、例えばガンだったとか、心臓病だったとか、何か具体的な病を患っての死去だったとはされていない。
そもそも池田の死去が公表されたのは、11月18日の午後のことだった。それまで世間一般はもとより、創価学会内でもごく一部の最高幹部を除き、池田死去の情報は共有されていなかった。実は11月18日とは創価学会の創立記念日とされている日で、当日の『聖教新聞』を見ても、お祝いムード一色だ。18日の午後に創価学会側が発表したところによると、池田の葬儀は近親者のみを集めた「家族葬」として、すでに11月17日に行っており、18日の午前には、その遺体を火葬したのだという。
語り継がれる「死に顔」
創価学会第2代会長・戸田城聖は、1958年の3月中旬ごろから体調を崩し、日蓮正宗総本山・大石寺(静岡県富士宮市)内で床に臥せるようになった。4月1日になって東京の日大病院に入院し、すでに述べたように翌2日、58歳の生涯を閉じた。死因は急性心衰弱だったと、創価学会として当時発表している。3月中旬から4月2日の死去までには、当時の学会幹部などが戸田のもとを見舞いに訪れており、その死の床で池田大作と語らったなどといった逸話が、いろいろと残されている。そして前述のように、戸田の遺体は1週間を経ても腐敗することなく、棺は創価学会員たちに担がれて火葬場まで送られ、またその死に顔について「戸田の顔は微笑み、輝いているように見えた」と、語り継がれているのである。