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「女性差別をなくす」均等法の母・赤松良子さんが「人生で一度だけ、仕事を辞めたいと思った瞬間」

2024/02/29

genre : ニュース, 社会

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 その根っこは、昭和初期の幼少期にあった。

「私には兄弟がいっぱいいるんだけど、長男が威張っていて、今でも忘れないけれど『この家のものは竈の下の灰まで俺のものだ』と言われたの。戦前は民法上、親の財産は全部長男が相続するものだったんです。私は女の子、特に末っ子だから、何ももらえない」

 

母はかわいそう、女はつまらない…親元にいた頃の本音

 しかし、当時の常識が変わる時が来る。

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「頭にくるなと思っていたら、高等女学校の時に戦争に負けた。それで民法がガラッと変わった。制度が変わって権利ができた」

 さらに戦後、変わったものがあった。教育だ。

「戦争が終わるまでは、東大はおろかどの大学も女には閉ざされていて、女子大と名のつくものは専門学校だったんです。これも頭にくると思っていたら、東大を受験できることになって、大喜びで受けました」

 赤松さんの父・麟作氏は当時の関西洋画壇の重鎮で、東京美術学校(現・東京藝術大学)出身だが、娘の目には父より聡明だと映っていた母は、小学校も出ていなかった。母はかわいそう、女はつまらない、というのが、親元にいた頃の赤松さんの本音だった。

 

女だから損したことはほとんどない、と言える期間は短かった

 できるだけ男性と平等になれる条件を、と進学した東大法学部では、同級生800人のうち女子は4人だけだった。

「とにかく男の学生が親切だった。800人中4人しか女の子がいないのだから目立つじゃない。そしてちょっとかわいい子だったから、ハハハ」

「私が東大にいた時は、女だから損したことはほとんどない。得したことはいっぱいあったけど。ごっつぁんでしたよ」

 というように、ユーモアたっぷりに回想するのだった。

 たしかに父・麟作氏が描いた大学1年時の赤松さんの肖像画『良子』を見ると、若々しいかわいらしさがあるのは間違いない。だがそれ以上に、夢を夢で終わらせないような瞳や引き締まった口元には、芯の強さが表れているようだ。

 女だから損したことはほとんどない、と言える期間は短かった。