2月6日に元文部相で、日本ユニセフ協会会長の赤松良子さんが亡くなった。94歳だった。女性官僚として、入省から定年まで一貫した仕事のテーマは「女性差別をなくす」。訃報を受けて、「赤松良子さんのおかげでいま私は会社で働くことができている」といった追悼の声があがった。
赤松良子さんのおかげでいま私は会社で働くことができている。まだまだ平等には程遠いけど、過去に声を上げてくれた人たちのおかげで今があるんだよね。
— 笛美「ぜんぶ運命だったんかい おじさん社会と女子の一生」発売中 (@fuemiad) February 7, 2024
元文部相・赤松良子さん死去 男女雇用機会均等法の成立に尽力:朝日新聞デジタル https://t.co/3ZTqUIKdFG #
月刊「文藝春秋」の取材で赤松さんと対面したジャーナリストの秋山千佳氏がそのときの印象を綴る。
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「男女雇用機会均等法」を世に送り出した立役者
たった1時間の対面が、心に熾火のように残っている。
女性官僚の先駆けとして労働省(現・厚生労働省)で定年まで勤め上げ、その後は文部大臣などを歴任、2月に94歳で急逝するまで日本ユニセフ協会会長を務めた。
……という略歴より、“均等法の母”という異名の方が有名だろうか。
赤松良子さん。労働省婦人局長として、男女雇用機会均等法(1986年施行)を世に送り出した立役者だ。
私が赤松さんを取材したのは2020年秋。指定された六本木の国際文化会館ロビーで待っていると、赤松さんは1人で現れた。
手にした杖に頼らないたしかな足取りで、カフェの席に着くとしゃんと背筋を伸ばす。90代とは思えない颯爽とした姿にこちらが見惚れていると、
「近所の坂道を歩くのが日課なの」
と教えてくれた。
「職業を持たないと一人前になれないと考えていたの」
均等法についてはこう述懐した。
「あの法律の前と後とでは大違いですよ。法律がなければ、うちの会社は女だけ30歳定年だとか言われても個別に裁判するしかない。けれど、今だったら法律上そういうことはできないはずだと上司に言える」
法律ができる以前を知らない世代からしたら、女だけ30歳定年だなんてバカな、と思うだろう。ところが、女性にだけ「結婚退職制」や「若年定年制」が存在する会社もあったのが、ビフォー均等法のこの国の現実だったのだ。
取材の冒頭、赤松さん自ら切り出したことがあった。
「あのね、自分のことを話しますと、職業をちゃんと持っていないとだめだと思ったの。職業を持ちたい。職業を持たないと一人前になれないと考えていたの」