ここまでに何度も触れてきたが、師匠である北橋(修二)先生と、その親友である瀬戸口(勉)先生には、無償の愛ともいえる多大なるバックアップを受けた。
この二人の先生には、どんなに感謝してもし切れない恩義を感じているが、デビューしてから2006年に北橋厩舎、2007年に瀬戸口厩舎が解散するまで、「先生たちに迷惑をかけてはいけない」というものすごい重圧があったのも事実だ。
胸がギューッとなった「瀬戸口先生の言葉」
実際に、馬主さんから「福永を替えろ!」という声が上がっていることも知っていた。しかも、そういう声に対して、先生たちは異口同音にこう答える。
「ウチは祐一を乗せます。それが嫌なら、馬をよその厩舎に連れていってください」
先生たちに、そんな言葉を言わせないためには、自分が結果を出すしかない。「福永洋一の息子」としてのプレッシャーはまったくなかったけれど、先生たちに迷惑をかけることなく、何とかその思いに報いなければというプレッシャーは、独り立ちするまでずっと感じていた。
そうした馬主さんの言葉が自分の耳に入らないよう、先生たち自身が防波堤になってくれていたのだが、ある日、瀬戸口厩舎でその現場に立ち会ってしまったことがある。自分がいる横で馬主さんと電話をしていた瀬戸口先生が、「じゃあ、よそに持っていってください」と言ったのだ。
馬主さんの「福永を替えろ」という言葉への返事であることは、すぐにわかった。しかし、それ以上に「本当に『よそに持っていってください』って言うんだ……」と胸がギューッとなったことを鮮明に覚えている。
そのほかにも、馬主さんから「祐一くんは、うまくないねぇ」と言われてしまうことが少なからずあり、人伝に自分の耳にも入ってきていた。
エアの冠名で有名な吉原毎文オーナーも、そのうちの一人。オーナーの奥様が、自分がデビューする前に放送された福永家のドキュメンタリー番組を偶然見ていたらしく、「私はこの子を応援する。そして絶対にトップジョッキーにするんだ」と、ご本人いわく「勝手に決めた」という。
実際、自分を乗せるために北橋厩舎に馬を預託。吉原オーナーの「なぜ、あんな下手な子を乗せるんだ」という反対を押し切って、騎乗依頼をいただいていた。奥様は、自分がリーディングを意識するずっと前から、「祐一ならリーディングジョッキーになれるから、自分を信じなさい」と言い続けてくださった。
そして、本当にリーディングを獲った頃には、吉原オーナーも「最初は、妻が祐一を乗せたいと言うたびに反対していたけれど、いつの間にうまくなって。もうお願いしても乗ってもらえないな!」と冗談混じりに褒めてくださり、「やっと認めてもらえた」とうれしかったのを覚えている。
その後も、吉原オーナーご夫妻とは良いおつき合いをさせていただき、それは調教師になった現在も続いている。当時は厳しい意見に傷つくこともあったが、今ではありがたいことだと受け止められるようになった。